音符
「あそこの電線にあれ燕がドレミハソラシドよ」
― 三好達治 「燕」 ―
午後外に出ると、遠く台風が近づいているからだろうか、西の空から美しい雲が静かに流れてくる。
巻積雲、あるいは高積雲と呼ばれるあれらの雲たちは、けれども空全体を覆うこともなくゆるやかに形を変えながら青空を流れていく。
そんな、梅雨、というよりはむしろ秋めいた空を見上げながら歩いていると、国道を横断するように掛けられた電線にツバメたちが並んでとまっていた。
思わず私が笑ったのは、引用の三好達治の詩を思い出したからだが、ほかに静かな通りもあるのになぜこんなにも車の往来の多いところをわざわざ選んで彼らがとまるのか、私にはわからない。
けれども、その鳴き交わす声はいかにもおしゃべりをしているようで、なんだかたのしそうだ。
あれは混んだ店などにいる方が会話が弾む人間たちと同じなのかしら。
大きなトラックが通り過ぎても平気な顔でずっととまったまま、皆が皆、同じこっちの方を向いてこもごも鳴いている。
私には音符なぞ読めはしないが、それでも、五線ではなく三本並んだ電線の、それも皆同じ一本の電線にとまっているのだから、あれが
ドレミハソラシド
ではないことぐらいはわかる。
けれども、斜めに見上げる私から見える頭の位置のズレをあえて音符になぞらえてみれば
ソ、ラ、ソ、ラ、ミ、ソラ
だろうか。
・・・などと思ったのは彼らの背景にある「空」がきれいだったから、というだけであって、別段、彼らが空を見ながら雲の動きから明日の天気を占っていた、というわけではない。
むしろ、明日の天気をさえ思いわずらわぬ心が、たぶん彼らの明るさの秘密なのだ。