戻る場所
たとえば、原子炉等を収めている、窓のない直方体の建屋。原発の建屋は、オウム真理教の教団施設、彼らが「サティアン」と呼んでいた建物とよく似ている。
― 大澤真幸 『夢よりも深い覚醒へ』 ―
高橋克也という元オウムの信者の男はまだ捕まらずにいる。
ともかく彼は逃げつづけている。
なにしろ、彼は追いかけられているのだ。
今やいたるところに設置されている監視カメラの網をくぐって彼は逃げつづけている。
スゴイものだ、と思う。
私にはとてもできない。
しんどいだろうな、と思う。
「サティアン」を出た彼にはどこにも戻る場所がない。
この前捕まった菊地直子という同じ元オウム信者は、捕まって、ほっとしたそうだ。
そうだろう、と思う。
逃げることをやめれば、追う者はいなくなる。
さほどの罪とも思えぬ罪の彼女が、もしごく初期に捕まっていれば、彼女の人生のこの十数年はもっと穏やかな気持ちで過ごせただろうと思う。
そこから出た者すべてが逃げねばならないのではない。
当初たまたま捕まらなかったことが彼らに「逃げる」という選択肢しか残さなかったのだ。
彼女を駆り立てていたものは罪の意識よりも自分が「サティアン」にいたという記憶だったろう。
けれども、逃げ続ける者に安住の地はない。
そうして、人は帰る場所を失う。
先週、刑務所から出たばかりの男が大阪で見知らぬ男女を包丁で刺し殺した。
彼には、出てきたこのシャバで帰るところがなかった。
何度も何度も罪を犯して改めなかった彼にはどこにも行くところがなかった。
逮捕の後「自殺しようと思って包丁を買った」と言っていたが、たぶん彼は刑務所に戻りたかったのだ。
だから警察が来ても逃げなかった。
心の奥の方から彼に聞える声は、刑務所のほかにお前ののいる場所がないと呼びかけていた。
もちろん私たちは思う。
「だからと言って、人を殺すことはあるまいに!」
大飯原発はやがて再稼働することになるらしい。
政府をはじめ、そのことに一向異議を唱える者のいない国会議員の中でも、それはほとんど既定の路線らしい。
明日大飯町長が稼働を認めると表明し、週末には福井県知事がまた同じことを言うらしい。
そんな「茶番」と言うのもはばかられるほどに見え透いた手続きが「粛々と」進んでいる。
なぜ、そうなるのか私にはわからない。
わからないが、そうなるらしい。
彼らはいったい何に追われているのか。
何から逃げようとしているのか。
なぜ彼らは「捕まろう」としないのか。
そうやって、あれほどの国土とそこに住んでいた人々の暮らしを破壊してしまった原発を「安全」と宣言してまで、なお彼らが戻りたい場所とは何なのだろう。
「成長」という「サティアン」だろうか、「繁栄」という「サティアン」だろうか。
あの頃マスコミで流行った言葉に「マインド・コントロール」などという馬鹿げたものがあったが、そのような言葉を口にしていた自分たちに今「マインド・コントロール」を掛けているものはいったい何なのだろうと、せめてそれぐらいのことをちょっと立ち止まって考えてみてはどうか。
大阪で人を殺した男は刑務所で何一つ変わらなかった。
それは彼がほんとうの「悔い」を持たなかったからだ。
ほんとうに自らを省みなかったからだ。
けれども、それを指弾する資格を、この国の政治家たちは誰一人持っていない。