時間が流れない時間
六月や読めねど譜面美しき 堤一巳
朝のFM放送をつけているとこれから流れる曲の紹介をする女の人の声が聞こえてきました。
「それでは、デンマーク民謡で 『私は庭でちょうちょうが飛ぶのを見る』 」
なんだかはっとしました。
その題名だけで何やら朝から美しい詩を聞いたような。
続けて女の人が歌の題名を告げていきます。
「森の深い静けさの中で」
「カラスは木の高いところにとまる」
「羊飼いの少女の日曜日」
これらの歌は続けて歌われたのですが、どれもやわらかな旋律を持つ歌でした。
もちろんデンマーク語で歌われているのでしょうから、その歌詞の内容がどのようなものなのか私にわかるはずもありません。
けれどもこれらの題名を持つ歌というだけで、それはとてもすばらしいことを歌っているような気がしました。
それにしても
私は庭でちょうちょうが飛ぶのを見る
はすてきです。
たとえばこの歌の題名が、ただ単に
庭でちょうちょうが飛ぶのを見る
だったらどうでしょう。
それはたぶん私に何ほどの感慨を与えなかったような気がします。
たぶんそこに「私は」という主語が入っていることによって、これを詩として私は受け取ったのです。
「私は」という主語が、庭に飛ぶ蝶だけでなくそれを見ている自分を含めた視野を与え、私にえもいわれぬ静かで穏やかな時間をイメージさせたのです。
私は、一週間ほど前の晴れた午前、開け放った窓の外の柚子の木に二羽のアゲハチョウがもつれながら飛んでいたのを見ていたことを思い出しました。
ふと見ると白い花弁の落ちた地面にも蝶たちの影がくっきりと映っていました。
それはとてもおだやかなとてもよい時間でした。
言ってしまえば、それは時間が流れていない時間だったような気がします。