訪問者
俺のことはイシュメルと呼んでくれ。
― メルビル 『白鯨』 ―
この頃は六時を回っても外は明るい。
私は、椅子に座って本を読んでいた。
ヤギコはそんな私の右のももの上に肢をたたんで眠っている。
ふと気配を感じて目を上げると、窓のところにほっそりとした小さな鳥がいる。
胸元に黒いネクタイ。
シジュウカラだ。
黒い帽子もかぶっている。
私の座っているところからは2メートルと離れていない。
思わず頬をゆるめながら見ていると、本人は何の警戒心もなく窓の桟のところに止まって、ピッ、ピッ、と鳴いてはさかんに首をかしげ部屋の中を覗き込んでいる。
今にも中に入って来そうだ。
「オイ、オイ、猫がいるんだぞ」
もちろんヤギも目を覚ましているが、驚いたことに私のももの上の肢はたたんだままだ。
わずかに顔を上げて鳥を見ているだけだ。
老いたのだなあ、と思う。
かつてなら音もなく膝を滑り下り身を低くして攻撃態勢を取ったものなのに。
猫も老いれば人格者になるらしい。
エライものだ。
私の無言の警告が通じたか、鳥は部屋に入っては来ず、やがてそのまま飛び去っていった。
すこしさびしいが、それでいいのだ。
部屋はもとのままになる。
ヤギコは私の膝を下りて窓辺に行く。
そうして、もういなくなった鳥を求めて空しく空を見ている。
私は頬をゆるめたままタバコに火をつける。
あれはどれくらいの長さだったんだろう。
一分、長くても二分くらいの時間だったにちがいないが。
けれどもそれは今日の私の心がいちばん生き生きと動いた二分間だった。
何をしたわけではない。
何といってたしかなものをもらったわけではない。
ただ小さな鳥が私の部屋を覗いてさえずってくれただけなのだ。
けれども私は、まちがいなく、なにかとてもいいものをもらったのだ。
あんな小さな鳥が来てくれたというだけで、今日の私はなんだかセロ弾きになったような気分だ。
今日は私のことをゴーシュと呼んでくれ。