凱風舎
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スケール

 

 

  太陽の光に照らされて、太陽そのものをみることができるように、わたしは仏の智慧の光によって、仏の行じたもうた道をみることができた。

 

  ― 「華厳経」 (玉城康四郎 訳)―

 

 朝から霧雨。
 台風の余波の風も強く、10頃には雨は強い。
 それでもお昼を回った1時頃空が明るくなったから、外に出てみたらお日さまがいる。
 この前の金環蝕の時、勝田氏の近所のおばちゃんが使っていたという黒いゴミ袋を私も使うことにする。
 これは使える。

 いた、いた!
 それにしてもまあ、なんと小さいこと。
 テレビで小学生が
  「ホクロみたい!」
と言っていたけど、たしかにそうかもしれない。
 ホクロというか、なんだか臥牙丸のお尻にとまったハエみたいだ。
 金星の大きさはほとんど地球と同じで、地球から金星までの距離は、地球から太陽までの距離の3分の1しかないというのに、あんなに小さい。
 もちろん夕方見る金星の大きさと太陽の大きさから、まあそんなものだとは思ってはいたのだが、実際ああやって重なったのを見たら、
   なーるほど、こんなに小さいのか
と、いたく納得している自分がいた。
 太陽にとって金星や地球なんて、ほとんど地球にとっての人工衛星みたいなものに過ぎないものなんだな。

 

 ・・・・とここまで書いて、昨日はそのあとずっと《スケール》ということを考えていた。
 《スケール》というのは「規模」という意味のほかにもちろん「物差し」という意味もあって、つまりは「《スケール》を考える」とは「どういう物差しで物事を考えるか」ということで、そこから、妙な連想だと思うかもしれないが、イスラムのアッラーの神様とか、奈良の大仏のことを思ったりしていたのだが、昨日はそれをどう書いていいのかわからず、そのまま寝てしまった。
 まあ、今日になったからと言って何がまとまったというわけではないし、何を書けるわけではないのだが、ただ、昨日の金星の太陽面通過を見て、たとえば、あの奈良の大仏はなんであんなに大きくなければならないのかを考えることは、意味のないことではないような気がしているのだ。

 あの大きさは、もちろん、大仏がそれをかたどったという毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)という仏の、その存在の大きさを表し、あまねくその功徳を日本全土に及ぼして「鎮護国家」を願ったということがあるのだろうけれど、現実にその前に立つ人々にとって、一人一人の「ちがい」などというものが、あの大仏の前では何ほどのことでもないと思えることが、実は仏の救いというもの本質なのではないか、などと思ったりしたのだ。
 世に生きる人々の悩みや苦しみというものが、実はすべて「自分という《スケール》」で物事をとらえ考えているから生じるのだとすれば、それを無化するものは、まったくちがうスケールでそのことを観ることであるはずなのだから・・・。

 などとと、書いてみたけど、やっぱりダメだな。
 全面展開するならこのような文体ではダメだし、そもそも長くなり過ぎる。
 アッラーの神様のことなんてましてグダグダになりそうだ。

 とりあえず今日の引用は毘盧遮那仏をほめたたえる「華厳経」からにしてみました。
 もっとも、太陽の光で太陽を見たら目がつぶれてしまいそうですが。
 久々にはじめから読んでみたらおもしろいので、これから全部読み返してみます。