凱風舎
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高さ

 

  ぼくたちは
  ゆったりと空に寄りそう地平線が見たかった
  旅に出たかったが忙しすぎたぼくらは
  高さを探して見慣れた街を歩いた
  階段をのぼり 階段をおり――
  いつも 地平線は
  ひしめく屋根と煙突と
  三つの鉄塔の彼方だった

 

  ― 渡辺武信 「出発のために」―

 

 

 東京タワーには一度だけ上ったことがある。
 中学校の修学旅行で東京にやって来た時上ったのだ。
 けれども覚えているのはそこに「のぼった」ということだけで、そこから見た風景がぼくにどんな感慨をもたらしたのかは何も覚えていない。
 たぶん何も思わなかったのだろうと思う。
 修学旅行で覚えているのは、東海道線の列車(ぼくらは新幹線には乗らなかった)の窓から見た太平洋岸の町々の風景と富士山の大きさ、それに日劇で見た宝塚歌劇のことだけだ。
 もっともその歌劇の方はたしか「エルベの恋人」とかいうような題名のを二階席から観たのだが、やたらに目の大きな男装の女たちが歌を歌いながら大げさな身ぶりでまじめにそんなものを演じているのに感じたとてつもない違和感が印象深く残っているだけなのだが。

 その後上京してから40年近くになるが、その間東京タワーにのぼりたいと思ったことは一度もないし、また誰もぼくを東京タワーに誘った者もいなかった。
 それがぼくとぼくの周りの人間に特殊なことなのか、それとも誰でもそういうものなのか。
 そもそも、どんな人があすこにのぼりたがるのか・・・・

 などということを思い出したのは、今の昼のニュースのトップが東京スカイツリー営業開始だったからで、なぜかわからぬが、マスコミにとってはこれはニュースらしい。
 どうやら高いところにのぼりたがる人はたくさんいるらしいのだ。
 わからないが、そういうものであるらしい。
 もっとも今日はあいにくの天気で遠くは見えなかったらしいが、晴れていたところで、実はそこから人が見る風景はたぶん雨の日と変わらないものなのだ。
 なぜならそこにのぼる人は他人が見たのと同じ風景を確認するためにのぼるのだから。
 エレベーターでのぼった高みから見る光景はみな、ほかの人たちと同じ視線、同じ感想しか持ちえないものだ。

 今日引用した渡辺武信の詩が「階段をのぼり 階段を下り」て求めた「高さ」は人と同じ視線を持つための高さではなく、自分の視線で自分自身の風景を見るために求めた高さだ。
 けれども、そういう「高さ」より、何の匂いもしない、風も吹かない「高さ」をのぼって、人と同じ視線で見ることが好きな人がたくさんいるらしい。