熱風
中学で一生分のドライヤーの熱風浴びてしまった俺よ 穂村弘
夕刊にこんな歌が載っていた。
渋谷のライブハウスで去年の3月27日から今年の4月8日まで計八回開かれた、東日本大震災のへの思いを作家や詩人たちが持ち寄る「ことばのポトラック」という朗読会で披露された歌だという。
すごいなあ。
すごい歌だなあ。
笑った。
もちろん被災地の子供たちが浴びた「一生分のドライヤーの熱風」が何だったのかは言うまでもなく、歌はそれを笑いの向うに示唆してただごとではないのだが、一方で、それとは違った感慨も私には湧いたりした。
私らの頃の金沢市の中学生というのは坊主頭がきまりだったから、これを読んでるおじさん連の誰一人としてその時代に「ドライヤーの熱風」なんて浴びたこともなかったろうが、(そして私の場合はその後も床屋以外でドライヤーのお世話になったこともないのだが)、まあ、思ってみれば多くの男たちにとって、「ドライヤーの熱風」なんてのは色気づく十代でそのほとんどを浴びつくしてしまうものかもしれない。
すくなくとも、髪型を決めるために本気で、圧倒的熱意と注意をこめてドライヤーを手にすることなんて男にはその後ないんじゃないかしら。
たぶん、人には思春期にしか本気で浴びられない熱風があるのだろう。
もちろん、そのころ「一生分のドライヤーの熱風」を浴びたからといって、その後の人生に何の影響もないであろうが(髪が薄くなったりするのかしら)、その時期、私たちは人それぞれの何かから「一生分の熱風」を浴びてしまうのかもしれない。
その結果、二度とそれに近づかなかったり、あるいはそのせいでその後の「自分の髪型」がきっちり決まってしまったりする熱風。
あなたにとって若い頃一生分を浴びてしまった「ドライヤーの熱風」っていうものがありますか?
あるとすれば、それは何だったですか?