長距離バス
わがこゝろのよくてころさぬにはあらず
― 『歎異抄』 (金子大栄 校注)―
ただごとならざるバスの残骸である。
金沢から千葉のディズニーランド行きだという。
さなきだに若い人たちの突然の死はいたましいのに、亡くなった人たちの住所を見れば知っている町である、聞いたことのある地名である。
けれど、痛ましい思いとともに、なぜなんだろう、思い浮かぶのは『徒然草』一節と『歎異抄』の言葉である。
こんな感慨は今風ではないし、こんな事故にはふさわしくないと思われるかもしれない。
しかし、思い浮かぶものは仕方がない。
徒然草。
人混みの中賀茂のくらべ馬を見ようと楝(あふち)の木の上に登っていた法師の話が載っている(第四十一段)。
その法師、木につかまりながらすっかり眠りこけて、今にも落ちそうになると目を覚ますことがたびたびであった。
これを見て、人々はあざけり呆れて
「世の痴れものかな。かくあやふき枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」
(なんというバカ者だろう。あんな危ない枝の上でよくもまあ安心して眠っていられるものだ)
と言ったという。
これを聞いた兼好は
「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日をくらす、愚かなることはなほまさりたるものを」
(私たちに死がやって来るのは、たった今かもしれないではないか。それを忘れて見て愉しいことの見物に日を暮らしている愚かさはあの法師よりもひどいものではないか)
と言う。
これを読んで、兼好ちうのは、なんとイヤミで説教臭い男だろう、と若い頃は思った。
今はそうは思わない。
そういうものかと思う。
夜行バスの人々は皆よく眠っていたであろう。
誰一人自分が事故に遭おうなどと思いもしないこと、この話の法師に劣らない。
別にバスに限らない。
電車だろうが、飛行機だろうが事故は起きうるし、あるいは道を歩いていようが、死は唐突にやって来る。
そのように死というものはある、ということを私たちは忘れているだけのことだ。
だが、それを忘れていられるからこそ、私たちは日々をおもしろ楽しくも生きられるのだろう。
逮捕された運転手も何も居眠りをしようなどと思っていたわけではない。
人を殺そうなどと思っていたわけではもちろんない。
にもかかわらず結果として人を殺めてしまった。
生活するために取った大型免許で人をあやめようと誰が思おう。
彼と私がちがうのは、私が無精で、免許を持つ縁を持たなかったということだけである。
大型免許を取らなくても暮らしてこられた、というだけのことである。
私が免許を持っていれば必ずや飲酒運転をしたであろう。
居眠り運転もするであろう。
そういう男である。
今も人々を乗せてたくさんの長距離バスが高速道路を走っている。
たくさんの家族連れの車が走っている。
だれも自分に事故なんか起きないと思っている。
起こさないと思っている。
生きているとはそういうことなのだが。