文化系の「素粒子」
ニュートリノは宇宙から大量に降り注いでいます。私たちの体は1秒間に何十兆個もニュートリノを浴びていますが、ほかの物質とはほとんど衝突せずにスルスルと通り抜けてしまうので、見つけることは至難の業です。
― 村山斉 『宇宙は何でできているか』 ―
昨日上記の本を読んでいて、私には絶対、素粒子物理学はわからない、ということがわかりました。
もちろん、そんなこと、読む前からわかっていたのですが、今や、自信を持って言い切ることができます。
それというのも、勝田氏に大変正しいことを教えてもらったからです。
私、この本を読み終わった後、あまりのわけのわからなさに興奮して勝田氏に電話でたずねました。
「そもそも、カミオカンデとかいうような大仰な装置を作らん限り、何物ともぶつからず何物とも反応しない《ニュートリノ》という物は、はたして《存在している》と言えるんか」
勝田氏は一向驚いたふうもなく言いました。
「まあ、それは《存在している》と言えますなぁ」
「ど、ど、どいうこと?」
「あなた、そんなもんは無数にありまっせ。
あなたが日々浴びていいるのに、あなたの体の中の何物とも衝突せず反応もしないで、ただただあなたの中を通り抜けていくものは、なにも《ニュートリノ》だけに限ったことではありませんよ。
早い話が、若い娘さんが言う「かわいい」ですよ。
「ステキ」ですよ。
あなた、あなたはそんなものに反応しますか。
反応しないでしょう。
女子高生がカバンになにやらいっぱいつけている物の、いったいどこがいいのか、あなた、わかりますか。
わからんでしょ。
でも、そこにたしかに、彼女らの「かわいい」があるんです。
あなた、ジャニーズの男たちの識別ができますか。
できんでしょ。
あなたはできなくても、世の中にはそれができる人がいる。
そこにその人らの「ステキ」があるんです。
ということは、それは確かに《存在》しているということです」
「ははあ。
ということは、娘らの「かわいい」や「ステキ」はわしにとっての《素粒子》なんか」
「そうです。
そうして、若い娘さんこそがそれらの存在を証明する《スーパー・カミオカンデ》なんです!」
「深いなあ」
「カミオカンデはそもそも地中深くにありますからな。
そしてこれはまあ、逆もあるということですよ。
あなたが日頃「いいなあ!」とか「すばらしい!」とか言っておいでになる詩歌俳句の類や、文学者哲学者の言葉なんてのも、実はほかの多くの人たちにとっては体を素通りしていく《素粒子》なんです。
そしてですね、物理学者たちが《ニュートリノ》だの《ダーク・マタ―》だの、その《存在》があるなどないなどと言っているのも、実は女子高生たちが
「これかわいくない?」
「かわいい、かわいい、ちょーかわいい!」
などと言ってるのと同じことなんです。
それは、あなたにも、そして言うまでもなく私にも、一向わからなくても構わんものなんです。
なぜなら、結局それらは私らには《存在》しないも同然なんですから」
なあるほどなあ。
よーく、わかりました。
ところで、私、勝田氏の話を聞き終わった後、なぜか伊東静雄の詩を思い出していました。
無縁のひとはたとへ
鳥々は恒に変らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聴く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺な広大の讃歌を
という「わがひとに与ふる哀歌」の一節です。
物理学者たちが物質の背後に「無縁の人」には決して見えない《素粒子》の存在を見るのも彼らの「意志の姿勢」であり、女子高生が何でもないもののうちに《かわいい》を見出すのも彼女たちの「意志の姿勢」でしょう。
そして、それらの中に彼ら彼女らの《意志の姿勢》を見出すのもまた、私の「意志の姿勢」のはずです。
世界が多様性に満ちているとは、実は世界を見る一人一人の人間の「意志の姿勢」が多様であるということのような気がしました。
たいへんおもしろかった『宇宙は何でできているか』という本の、これが私の感想です。
たぶん、宇宙は「私たちの意志の姿勢で」できているんです。