飲酒を誡む
母堂屡屡(しばしば)予等に語って曰く、篤介(注:中江兆民の幼名)少時、温順謹厚にして女児の如く、深く読書を好みて郷党の賞賛する所となりき。而して今や即ち酒を被(あふ)つて放縦(ほうしょう)至らざる無し。性情の変化する、何ぞ如此(かくのごと)く甚だしきや、この一事余が痛心に堪へざる所也、卿等(けいら)年少慎んで彼れに倣(なら)ふ勿(なか)れと。
― 幸徳秋水 「兆民先生」 ―
この通信を書きながら、どうも、言いたいことをうまく書けないのはなんでだろう、と考えれば、むろんそれは文体の問題にぶち当たるのだが、それはさて、そもそもすべてに私が顔を出して一人称で書くというしんどさがある。
かのガリレオ・ガリレイすら宇宙の秘密を語るにわざわざ登場人物三人の『天文対話』をこしらえ、ファラデーは『ロウソクの科学』で目の前に聴衆がいるように語りかけたのは、反対意見や素朴な疑問をちがう人物に語らせることによって、自分の思うところをより明快に分かりやすくするためであった。
それは何も科学系統の話だけでなく、たとえば中江兆民には『三酔人経綸問答』があって、これまた異なる意見をつきあわせて語ろうとするものである。(もっとも秋水によれば、兆民自身はこれはロクでもない本だと言っていたらしいが)
じゃあ、架空の登場人物を案出して書けばいいかとなると、如何せん、私にそのような小説的世界を仮構する才はなく、なによりかにより、実はそこまでの工夫を凝らしてまで人に告げたい真理の持ち合わせもない、という事実に逢着してしまう。
というわけで、今日は幸徳秋水の「兆民先生」を読み返していたら、中に上の引用の言葉があって、なんだか身につまされてしまった。
まあ、私に「郷党の賞賛する所」なんてありはしなかったが、それでも子どもの頃はこれでも「温順謹厚にして女児の如く」であったらしいのに、兆民の母堂が秋水に嘆いたのと同様の嘆きを私の母もまたしていたであろうと思うた事であった。
私の場合、それが酒によるものか、それとももっと根源的資質によるものかはわからないけれど、子どもらには言うております。
卿等年少慎んで我れに倣ふ勿れ。と。
ところで、『兆民先生』には坂本竜馬に兆民が
「中江のニイさん煙艸(たばこ)を買ふてきてオーセ」などと命ぜられれば快然として使ひせしこと屡々なりき。
なんて実に愉しいいい話も載っているが、今や子供にタバコを買いに行かせることもかなわぬ不自由な御世になってしまったなあ。
妙な時代だなぁ。