清く、正しく、美しく
もし、我々が夢想家だと言われるならば、
救いがたい理想主義者だと言われるならば、
できもしないことを考えていると言われるならば、
何度でも答えよう、
その通りだ、と。
― チェ・ゲバラ ―
昼間のニュースをつけたら、宝塚歌劇団の学校の入学式の様子を映していた。
髪を短く切り新しい制服に身を包んだ新入生たちは、背筋伸ばして姿勢よく、みんな笑顔で入場してくる。
入学式をこんな笑顔で迎える子らもいるんだなあ。
なんだか不思議だったが、あれはこれから自分がみんなから「見られる存在」になろうとする者たちの入学式だからなんだろうか。
でも、それは見ていて、さわやかでワルクナイものだった。
なにしろ、美しいお嬢さんたちである!
さて、新入生の代表の娘さんが入学の決意を述べているところも映る。
その彼女の言葉の中に
「清く、正しく、美しく」
という語が出てきた。
ひょっとして、それはたぶん宝塚歌劇団のモットーかその学校の校訓なんだろうが、
「清く、正しく、美しく」
などという言葉は長く聞かない言葉だったので私の耳が驚いてしまった。
私の耳が驚いたのは言っている彼女がその言葉を信じて語っていたからだ。
よい言葉だと思った。
「清く、正しく、美しく」
それは理想である。
彼女たちだけではなく、私たちすべての理想である。
清く、正しく、美しく
私だってそうありたい。
そうなりたい。
「だが、現実はそんな簡単にはいかない」
と自称「リアリスト」たちは言う。
けれども、そんな人たちは今日引用したゲバラの言葉を聞くがいい。
(これは昔、NHKで、誰かが言っているのを聞いてびっくりしてノートに書いた言葉だ)
理想とは未来にいる自分への規範ではないか。
それを持たぬものは「現実」に泥むだけだ。
理想であるがゆえに未来はいつも自分に向かって語られなければならない。
ほんとうに願われなければならない。
理想を信じ、そうなりたいと願う若者たちがいる。
それに向かって学び、これから努力を惜しまないとする若者がいる。
若者とは一人一人の胸の中にそれぞれの「清く、正しく、美しく」を持つ者のことだ。
未来にいる自分のモデルを持てないものに未来なんてありはしないだろう。
そしてそれはまた国も同じだろう。
原発再稼働を言う政治家の「現実」は未来に嗤われている。