凱風舎
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鶴竜

 

 スパルタの伝説的な立法家リュクルゴスは、(簡にして短、かつ密な)話し方を市民たちが身につけるよう、まだほんの子供に時分から訓練することを義務づけたが、その方法は、いかに話すかではなく、いかに沈黙するかを体得するというもので、かくて彼は市民たちに内容の密な話し方を身につけさせたのだ。

 

 ― プルタルコス 「饒舌について」 (柳沼重剛 訳)―

 

 世の中には、おしゃべり、というのがいる。
 そしてテレビにはそういうおしゃべりがたくさん出てきて、いろいろな話をする。
 ワイドショーやトーク番組というものを見ることはまずほとんどないのだが、スポーツ中継にも、解説者、とか、ゲスト、とかいうのがいて、そこでも要らぬことを得々と話し続ける。
 それゆえ、野球の試合の場合はそのほとんどを、そして大相撲でも、たとえば舞の海氏が喋りはじめると私は音を消してテレビを見る仕儀となる。
 うるさい、と思うのだが、多くの人は別にそれらを、うるさい、と思わないからこれらの人々が跋扈しているのだろうが、どうも。

 うるさいと感じるのは、わたしにはそれらの人の話が「しゃべるためにしゃべっている」ようにしか聞こえないせいだ。
 本当には思っていないことをしゃべるというのはヘンだと思うんだが、どんなことでも他人事としてしゃべるのに慣れるとそれをヘンとも思わなくなるのだろう。
 街頭インタビューで、株の話なんかしている奴は皆同じことしか言わないのも、あれは実は他人事だからだろう。
 まあ、街頭インタビューなどというものは、プルタルコスが書いているからギリシア・ローマの頃もいたらしい

世の中には、何か分からないことがあるから聞くのではなく、暇つぶしと遊びのために質問をこしらえて、おしゃべり屋にぶつけて、ばかなことをぺらぺらしゃべらせようという連中

のやることだと思っていればいいのだが。

  さて、かく言う私がおしゃべりでないかと言えば、これは相当のおしゃべりで、そんなこと、言わなくても、まあこの通信の読者ならみんな知っている。
 そんな私がプルタルコスの「饒舌について」を読み返して、冒頭の引用なんかをしてみたのは、鶴竜を見ながら
   剛毅朴訥、仁に近し。 (「論語」 子路第十三)
などという古風な言葉を思い出していたからで、もちろんそれは彼の資質もあろうが、ひょっとしたら彼は、古代スパルタのような教育を受けたのかもしれないと思ったからだ。
 いずれにせよ、口の重い男というのはいいなあ、とおしゃべりの私はついあこがれてしまう。
 (そう言えば、太宰治の『晩年』の中に、喧嘩次郎兵衛、という口の重い男のことを書いためちゃくちゃおもしろい小説があったなあ!)

 ところで、プルタルコスはこんなことも書いている。

 あるときアテナイである人が(エジプトの)王の使節たちをもてなした時、一行の熱心な希望により、多くの哲学者を一堂に集めようと努めた。そして集まったすべての哲学者が会話に加わり、それぞれの割り前を払った中で、ひとりストア派のゼノンだけが沈黙をつづけていると、使節らが彼にうやうやしく挨拶をし、一献傾けて言うことには
 「ゼノン殿、御貴殿のことをば我らが王になんと申し上ぐべきか。」
 するとゼノン答えて曰く
 「何も仰せには及びませぬ。ただ、アテナイには、酒宴の折に口を閉ざしていることのできる老人がいるのみ、御奏上あれ。」

 うーん、ゼノンはカッコいいなあ!