知れざる炎
森は一羽の鳥がゐて、その歌が、あなたの足を止め、あなたの顔を赤くする。
時を打たない時計がある。
― ランボー 「少年時」 (小林秀雄 訳) ―
こないだ確定申告を出しに税務署に行った帰りに古本屋に寄ったら、きれいに並んだ本棚に秋山駿の『知れざる炎 評伝中原中也』の文庫本(講談社文芸文庫)があった。
まったく何年ぶりに見る表題だろう。
かつて持っていた単行本は誰に貸したのか、今私の手元にはない。
表紙の裏に350円の値札が貼ってあった。
買って帰って中を開けたら当時の新刊案内がそのままはさまっていた。
読まれぬままに古本屋に流れて来た本らしかった。
そう、こんな本は誰も読まない。
だが読む人の数によって本の価値は決まるわけではない。
後ろの解説によればこの文章が雑誌「文芸」に連載されていたのは1975年から77年にかけてだという。
そうだったのか、と思う。
当時二十代の前半だった私は笹塚にいて駅の裏手にある図書館でその雑誌のその部分だけを、毎月なんだか自分が書いているような気分で読んでいた。(もちろん思い上がりだが)
古本屋で雑誌の端本を見つけると、それを買ってはまた読み返した。
そして、それが単行本になったとき、私はそれを買い、また読み返した。
読み返したとき、もう、中也に関しては何も語らなくていいのだと思った。
そのとき以来、私は誰の書いた中也論も読んではいない。
私もまた書こうとは思わなかった。
ここに語りつくされていると思ったのだ。
(たとえば、誰もが知っている「汚れつちまつた悲しみに・・・・・」という詩が、中也自身のことをうたったのではなく女のことをうたった詩なのだ、と正しく書くことができる人の論にいったい何を付け加えることがあろう)
あれから35年がたった。
35年ぶりの本は35年前と同じように痛切だった。
それは35年前の私と今の私がすこしも変わっていないということを示しているのだろうか。
もしそうなら、変わらなかった35年、それもまた痛切なものなのかどうか、私は知らない。
だが本当は、のほほんとしたこの35年ですべて変わったのだ、ただ一点を除いては、と言う方が正しいのだろう。
けれども、人にとって、自分が変わり得たところにいったい何の意味があるだろう。
森に一羽の鳥がゐて、その歌が、今でもわたしの足を止める。
多くの人にその歌はすこしも聞こえはしないのだが。