【凱風俳句】「貝殻に…」 北川 司さん
貝殻に耳あててみし春愁ひ
北川司さん
《凱風俳句》への投稿ありがとうございます。
むかし小学校の国語の教科書にこんな詩が載っていましたね。
私の耳は貝のから
海の響をなつかしむ
― ジャン・コクトー 「耳」 (堀口大学訳詩集 『月下の一群』)―
この前送られて来たの司さんの句は
三月や夜には潮の音ばかり
でしたが、今回、司さんは貝殻を耳にあててみた、と言っています。
そしてそれを「春憂ひ」と呼んでいます。
司さんの心にきざした「春憂ひ」とは、ひょっとしたら、耳に、もはや「海の響」が聞こえてこなくなったことへの軽い嘆きなのかもしれませんね。
ところで、コクトーの詩の「海の響」は「海の響」に違いないのですが、仮にコクトーの詩を《述語が目的語を修飾している》というふうに解釈すれば、この「海の響」とは《私の耳がなつかしんでいるなにものか》を指しているのだと解釈することもできます。
司さんが貝殻を耳にあててまで聞きたかったものは、たぶん明確に「これ」と名付けられるものではなかったのでしょう。
名付けられぬけれども、たしかにあった「なにものか」です。
明確な形があって「それ」と名付けうるものならば、私たちはその喪失を嘆くこともできます。
けれども、かつてあった名付けられぬものの消失を私たちはあからさまに嘆くことはできません。
だからこその「春憂ひ」のような気がします。
・・・なんてね、すこし気取って書いてみました。
すてぱん より
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