白玉
暮色を帯びた街外れの踏切りと、小鳥のように声を挙げた三人の子供たちと、そうしてその上に乱落する鮮な蜜柑の色と――すべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。が、私の心の上には、切ないほどはっきりとこの光景が焼きつけられた。
― 芥川龍之介 『蜜柑』 ―
3月に入っても今年は肌寒い日が続く。
やって来た高校生の自転車を借りて、近くのガソリンスタンドに灯油を買いに行く。
ハンドルを持つ手が冷たい。
彼女たちによれば、今日は県内の多くの高校が卒業式だったらしい。
今年も駅には手に小さなブーケを持った女子高生たちが溢れたのだろうか。
私は卒業式に関して何の感慨を抱いた経験もないのだが、それは私が男のせいなのだろうか。
よくはわからないが、人生の区切り区切りは男よりも女の人には重く感じられるものらしい。
それは単に女の人の方が「涙もろい」といったことのせいにすべきではないらしく思われるが、どうなのだろう。
それとも、ただ私という男がどこにも区切りというものをつけずにダラダラと人生を過ごしてきたということだけなのだろうか。
残る在校生たちは明日から期末試験。
同じ高校に通う山本さんと今関さんは明日は国語のテストらしい。
まさか昨日の司氏の写真にあった赤い本のせいではあるまいが、彼女たちがひらいている教科書を見ると
『伊勢物語』 《芥川》
とあるので、なんとなく、ふふふと思ってしまう。
白玉か何ぞと人の問ひしとき 露とこたへて消えなましものを
女を邸から連れ出して芥川という川のほとりまで連れて来た時、草に宿る露を
「あれは、なあに?」
と尋ねられたとき、ちゃんと答えてあげられなかったという、あの話だ。
女は「鬼」に食べられてしまい、男はただ一人朝の光の中に取り残される。
実は私、この話がかなり好きなのだが、それは
白玉か何ぞ
という問の中に、女の無垢(いのせんす)を見てしまうからなんだろうと思う。
そして、もしそうでなければ、この歌の魅力はどこにもなくなってしまうだろう。
芥川龍之介の心の中に焼き付けられたのが、暖かな日の色に染まった鮮やかな蜜柑の色であったように、「芥川」の男の中には川のほとりの闇に白く光った露がずっと残りつづけていたろう。
彼女たちの教科書の脚注によれば、この「芥川」は大阪の高槻市にあるという。
高槻ははずきさんが住んでいるところだが、一向そんな川があるということは聞かない。
今度電話があったら尋ねてみよう