予兆
「やって来たのは、ガスコン兵。」
― 太宰治 『春の盗賊』 ―
太宰治は高校1年から2年になる春休みに全集を読んだ。
毎日一冊ずつ読んで、ちょうど春休み二週間で全部読み終えた。
二、三冊ずつ片町の「うつのみや書店」で買って来ては、晴れて風のない日は屋根の上に干した布団の上にひっくり返って読んでいたのを思い出す。
「春の盗賊」もそのとき読んだ。
これは「私」が泥棒に入られる話で、当時ずいぶん笑いながら読んだことを思い出す。
そんなことを思い出したのは、昨日「予言」の話を書いたからで、そういえば私も「予言」を一つ知っていたなあ、と今朝布団の中で思いついたのだ。
その「予言」というのが今日引用した
「やって来たのは、ガスコン兵。」
何のことやらわけがわからない。
わけがわからないが、なぜかこの言葉が「私」の口をついて出るのである、と太宰は書いている。
けれども、こういう意味のない言葉が口をついて出たときは気をつけなければいけない、と言うのである。
それも、一度や、二度では無く、むやみ矢鱈に、場所をはばからず、ひょいひょいと、こういう言葉が出てくる時は、気をつけねばならない。
こういう言葉が口をついて出るのは、実はどろぼうに入られる予兆なのだ、太宰は言うのだ。
実に剣呑である。
私には、ひとりごとを言うくせが、昔からある。
若い頃は独り言に熱中して、バイクを止まっているバスにぶつけたことさえある。
ましては、もはや六〇に手が届くのである。
私のひとりごとのくせには磨きがかかっている。
私が台所に立ってしばらくすると、部屋の方から子どもたちの笑い声が聞こえてくることがある。
ハッと気づけば、たいていそのような場合、私が、ひとりごと、もしくはわけのわからない歌を歌っていたのである。
私もどろぼうに入られるかもしれない。
と、いうわけで、引用の言葉は「予言」と言うよりは「予兆」と呼ぶべきものかもしれないのだが。
そういえば、八木重吉にこんな詩があったなあ。
ああちゃん!
むやみと
はらっぱをあるきながら
ああちゃん と
よんでみた
こいびとの名でもない
ははの名でもない
だれのでもない
いずれ、この「ああちゃん!」という言葉も、意味のないひとりごとであろうが、重吉の所に、その後、どろぼうが入ったかどうか、私は、知らない。