タイダだい
飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福にかけては、ゼウスとさえ競いうるであろう。
― 「エピクロス 教説と手紙」(出隆・岩崎允胤 訳) ―
春は名のみの、風の寒さ、でございます。
まして、今朝は、夜来の雨、冷たく地面を濡らしております。
歌は思えど、声も立てぬ谷のウグイスならねど、「通信」は思えど、昨日のわたくし、寒さに心縮んで何も書けませんでした。
一昨日は晴れて暖かかっただけに
さては時ぞと、思ふあやにく
の思いが意欲をそいだのでございました。
寒いのはキライでございます。
死はわれわれにとって何ものでもない。
そう言い切ったギリシャの哲学者エピクロスでさえ、冒頭の引用の如く言うております。
「寒くないこと」は肉体の要求であります。
私がこれら二つの断片をいい加減にまとめてみるなら、彼の主張するところは、
寒さは死よりイヤなものだ
ということです。
実に正しい主張です。
べつに、ゼウスと競い合おう、などというだいそれた野望はどこにもありませんが、春は春らしく少しずつでも暖かくなっていってほしいものです。
とはいえ、一方ではこんな声も私の胸には響いているのです。
お釈迦さまの言葉であります。
怠惰にふけるならば、実にこれら六種のあやまちが起るのである。
1 「寒すぎる」といって仕事をなさず、
2 「暑すぎる」といって仕事をなさず、
3 「晩すぎる」といって仕事をなさず、
4 「早すぎる」といって仕事をなさず、
5 「わたくしははなはだしく飢えている」といって仕事をなさず、
6 「わたくしははなはだしく腹がふくれている」といって仕事をなさない。
かれはこのようにしてなすべき仕事に多くの口実を設けているので、いまだ生じない富は生じないし、またすでに生じた富は消滅に向かうのである。資産者の子よ、実にこれら六つのあやまちは、怠惰にふけるがゆえに生じるのである」と。
世尊はこのように説かれた。
― 「シンガーラへの教え」 (中村元 訳) ―
ね。
どんな仏像を見たってあんな薄着でいらっしゃるお釈迦さまが住んでおられた暑熱の国インドにおいてすら「怠惰にふける者」の第一の言い訳は、なんと、「寒すぎる」なのです。
ということは、私が昨日通信を書かなかったのは、私が「寒がり」であることよりもむしろ、ただ単に「怠惰にふける者」の代表であることをサジェストしてるのではありますまいか。
別に、私、資産者の子でもありませんし、いまだ生じない富を生じさせようなどと思ってもおりませんが、あんまり「怠惰にふける者」などという名では呼ばれたくはありません。
というわけで、今朝は心を入れ替えて午前中に「通信」を書いてみました。
思えば、今、この冷たい雨の中、「前期」の入試に落ちた子どもたちは「後期」の願書を提出に各高校に向かっております。
すくなくとも、あと一週間余り、私も彼らとともに「勤勉」であらねばなりません。
ところで、昔、受験勉強をしていた邑井氏が、サイモン&ガーファンクルの「ボクサー」という曲に合わせて
怠惰だーい、タイダ、タイダ、タイダだい
と自嘲気味に歌っておりましたこと、思い出しました。
もちろん、自らの「怠惰」を嘆き嘲る者の本質は「勤勉」なのであります。
けれども、難しいのは、それを思うことではなく実行することなのもまた論を俟たないところです。
受験生諸子の発奮を願うばかりです。