知音
「何か召し上がらなくちゃいけませんよ」とパン屋は言った。「よかったら、あたしが焼いた温かいロールパンを食べてください。ちゃんと食べて、頑張って生きていかなきゃならんのだから。こんなときには、ものを食べることです。それはささやかなことですが、助けになります」
― レイモンド・カーヴァ― 「ささやかだけれど、役にたつこと」 (村上春樹 訳)―
むかし、伯牙(はくが)という琴の名人がおりました。
彼には、鐘子期という友人がいて、この人は曲を聴くのがとても上手でした。
たとえば、伯牙が高い山のことを心に思いながら琴を弾じると、聴いていた鐘子期は言うのです。
「いいなあ、まるで高く聳えている泰山みたいだ」
また、伯牙の思いが流れる水にあって琴を弾くと、鐘子期は言うのです。
「いいなあ、その広々としたさまは、まるで長江か黄河の水が流れているようだ」
さて、あるとき、伯牙と鐘子期が泰山の北の麓に出かけたとき、にわかにとんでもない大雨が降って来ました。
彼らは大きな岩の下に雨宿りをしました。
いつまでも止まぬ雨にとうら悲しい思いにかられた伯牙は、いつも携えている琴を引き寄せて、これを弾きました。
はじめは「霖雨(さびしい雨)の曲」を造って弾き、 続いて「崩山(くずれる山)の曲」を作って弾じました。
すると、彼が一曲弾くごとに、それを聴いていた鐘子期は、その曲に込めた伯牙の心境を残るくまなく言い当てるのでした。
伯牙はそこで琴を置いて、感嘆して言いいました。
「ああ、すばらしい。実にすばらしい。
君はなんてすばらしい聴き手なんだ!
君が思い描くものは、ぼくの思っていることと全く同じだよ
まるで、ぼくの心そのままだよ。
もう、ぼくの琴の音に込めた思いで、君の耳を逃れる所なんてどこにもないよ」
その鐘子期が死にました。
伯牙はその琴の絃を断ち切ってしまい、その後二度と琴を弾こうとはしませんでした。
もう、自分の音楽をわかってくれるものが誰もいなくなったからでした。
これは『列子』の中に出てくるお話です。
このお話から、心の通じ合う友人のことを「知音(ちいん)」と言うようになりました。
引用したのは、子どもを誕生日に起きた事故で亡くした両親に、その子の誕生日ケーキを予約されていたパン屋が言う言葉です。
このパン屋の言うような、ささやかだけど、ぼくたちの助けになってくれるものは、なにも温かい焼きたてのパンだけではありません。
ぼくたちを取り巻きぼくたちを支えているのは、実はみな、そのようなささやかなものたちです。
たぶん友だちとは、そんなささやかだけれど大切なものを、ごく自然にぼくたちに贈ってくれる人のことなのだと思います。
伯牙が鐘子期からもらっていたものも、そんな、ささやかだけれど、大切なもの、だったような気がします。