梅に椿
自信といふものは、いはば雪の様に音もなく、幾時(いつ)の間にか積もった様なものでなければ駄目だ。
― 小林秀雄 「道徳について」 ―
藤色に染められた生地の右肩から白いぼかしが裾に向かってしだいに広がりながら流れている。
しばらく見ていれば、それは中也の詩の中に、「さらさらと、さらさらと」音を立てても流れていた、あの、秋の夜の、はるかの彼方の川原のようにも見えてくる。
流れの中には、「小石」の代わりに銀色の椿の葉が敷きつめられ、白い椿の花が、まるでそれがこれまでに見てきたいくつもの夢ででもあるかのように浮かんで、そして裾へと消えてゆく。
そしてその流れの両岸にあたる右の袖と左の裾には梅の枝が若々しい紅白の花をつけている。
もちろん、私たちはその中にあの光琳の『紅白梅図屏風』の意匠が息づいていることを見てとるだろう。
けれども、それがこんなにもひかえめにやさしく女性の身を包む着物になっていることに、ひそかなため息をつくのだ。
芦原晋 『梅に椿』。
そう紹介されていた。
着物に名前があるということも私は知らなかったが。
今朝、ふと思いついて、昨日の通信で触れた芦原くんのことをネットで検索してみたのだ。
彼が加賀友禅の絵付けをしていることは知っていたからだ。
けれども、これほど美しい友禅を描く作家になっているとは思ってもいなかった。
すごいなあ、と思った。
芦原くんとは中学のクラスが一緒だった。
高校はちがったが、雨の降らない休日はいつも二人で網を担いで山に昆虫採集に出かけていた。
そして、夜は三日と空けず彼の部屋へと出かけたものだ。
彼の部屋には、東京の大学に行っていた彼のお兄さんが残していった本が呆れるほどたくさんあった。
「これ、すごいわ」
と、しんとした声で太宰の『人間失格』を私に渡したのも芦原くんだったし、『墨東綺譚』の荷風に『断腸亭日乗』という日記があることを教えてくれたのも彼だった。
(家に帰った私はさっそく自分の日記に、墨で、『独閑亭日乗』 と題を書いたものだった)
「サン」⇒「ツアン」⇒「ヤン」⇒「ツア」⇒「サ」
を唱えるごときは当時の私らにとってごくあたりまえの行為だった。
父親も友禅染の絵師だった彼の部屋には画集もたくさんあった。
小学館の大きな「原色日本の美術」は全巻そろっていた。
私らはヒマに飽かせて、雪舟や雪村の水墨画や大雅や蕪村の南画を墨で模写しては喜んでいた。
もちろん、私が光琳の『紅白梅図屏風』をはじめて見たのも彼の部屋でだった。
音楽もずいぶん聞いた。
彼は昆虫の研究をすべく、東京農工大に行ったはずだが、最初の夏休み帰って来た時は大きなチェロを抱えていた。
大学の管弦楽団に入ったのだという。
私が、だれかにセロを弾かせてもらったのは後にも先にもあのときだけだ。
そのとき
「フランス語で、ゴーシュというのは『左』ちう意味やぜ」
と私が言ったら、左利きの彼はずいぶん喜んでいた。
その後、私は金沢を離れ、彼と最後に会ったのは、お互い二十代の終りか、三十代の始めだったろうか、金沢に帰った私が電話で飲み屋に呼び出したとき、あまりお酒を飲まない彼は、今は友禅の仕事をしていると、控え目に話しただけだった。
あれから、三十年である。
その三十年、まっさらな絹地に、今、一本のゆるぎない線を引くために、彼はこれまでどれほどの線を描き続けてきたろう。
それが梅になり、椿になるために、どれほど花を見つめてきたろう。
自信とは、雪の様に音もなく積もったものでなければ駄目だ、と小林秀雄は言う。
そうだ、その通りだ。
若者が「なんだか自信が湧いてきました!」などという自信は本当の自信ではない。
自信とは湧くものではなく、いつの間にか積もるものなのだ。
そんな、いつの間にか積もって溶けない自信が、今芦原くんにはあるだろう。
そして、そのような人間だけが、自信をもって、おのれの「未熟」をも口にすることができるだろう。
なんだか、背筋が伸びる思いがした。