魔の山
義貞朝臣七千余騎にて、塩津・海津に著(つき)給ふ。(中略)是より木目峠(きのめとうげ)をぞ越(こえ)給ひける。北国の習(ならひ)に、十月の初(はじめ)より、高き峯々(みねみね)に雪降(ふり)て、麓の時雨止(やむ)時なし。今年は例年よりも陰寒(いんかん)早くして、風に紛(まじ)り降る山路の雪、甲冑に洒(そそ)き、鎧の袖を翻して、面(おもて)を撲(う)つこと烈しかりければ、士卒寒谷(かんこく)に道を失ひ、暮山(ぼざん)に宿無(なく)して、木の下岩の陰(かげ)にしじまりふす。適(たまたま)火を求め得たる人は、弓矢を折焼(おりたい)て薪とし、未(いまだ)友を不離(はなれざる)者は、互に抱付(いだきつき)て身を暖む。元より薄衣(はくえ)なる人、飼(かふ)事無かりし[餌や水を与えなかった]馬共、此(ここ)や彼(かしこ)に凍死(こごえしん)で、行人道を不去敢(さりあへず)。
― 『太平記』 (巻十七)―
昨日の午前中、司氏より
金大・今日の角間
という写真が送られてきた。
はなはだしい積雪である。
私は金沢に生まれ、そこで二十歳を過ぎるまで暮らしてきたが、その間、カクマ、というのは一度も聞いたことのない地名である。
さほどのへき地である。
聞けば、ずいぶん山の中にあるらしい。
お茶の水にあった大学が八王子に行くのとはわけがちがう。
なにがかなしくて、こんな山の中に大学を移転させたのか、さっぱりわからない。
ほとんどサナトリウムである。
大学というものが若者にとってある種の「魔の山」としての機能を果たすことは知っているが、だからと言ってこんな雪深い山中に大学を建てることもあるまいに。
こんなに雪が積もるのでは、とてもじゃないが私は通学なんて出来なかったろう。
写真を見ていたら、『太平記』にある
「北国下向勢凍死ノ事」
という文章を思い出した。
南北朝の争いに敗れた新田義貞が越前へと向かうときのことである。
馬、ならぬ車で行き交う現代人も、雪が降れば行き悩むこと、昔と変わらない。
青森のどこかでは車が何百台と雪の国道で立ち往生したとニュースが伝えいていた。
車の中にいてさえ寒い。
ましてや、 防寒具とてなにもない今から700年近く昔、鎧を背負うた敗軍、降る雪はさぞや冷たかったろう。
火を得ることさへ「適(たまたま)」のことだと伝える。
雪はおそろしい。
木ノ芽峠の下を今はJRの北陸トンネルが通っている。