読み初め
「最後の手段として」
リチャードソン先生は言った。
「シャンパンを試してみましょう」
― クレア・キップス 『ある小さなスズメの記録』 (梨木香歩 訳)―
1940年7月1日、クレア・キップスはナチスによる爆撃が激しくなったロンドンの自宅の玄関で瀕死のスズメの雛を見つける。
マッチの軸で閉じないようにしたくちばしにミルクを一滴ずつ落としながらも、彼女はこの雛が朝まで持つまいと思っていた。
けれども翌朝彼女は
〈もしも細いヘアピンがさえずることができるとしたら、こんなふうではないか〉
という信じられないほどのか細い声を聞く。
これはそれから12年と7週と4日彼女とともに生きたクラレンスと名づけられた小さなスズメの物語である。
この雛は右翼と左脚に欠陥があって、成長しても野生に戻すことはできないスズメだった。
この話は、けっして感動をあおるような書き方はされていない。
感傷的であるより、むしろ淡々と事実を語ろうとしているだけだ。
にもかかわらず、十分感動的だ。
引用した部分は、クラレンスが老い、さらに便秘を起こして視力を失い、羽も抜け死にかけたときに、万策尽きた鳥専門の獣医の言葉であるが、その結果は
〈次の朝――酒神バッカスの全信者諸兄よ、記しおかれよ――彼の容体は快方に向かっていたのである。〉
けれども、さらなる老いとともに彼にも死は訪れる。
〈耳はしっかりしていたが、目の方はほとんど見えなくなっていた。立つには衰弱しきっていたが、二回ほど、健気にも勇気を奮い起こし、立とうと試みた。が、それもかなわず、私の温かい手の中に静かに体を横たえ、数時間、じっとしていた。それからふいに頭を上げると、昔から慣れ親しんだ格好で私を呼び、そして動かなくなった。〉
これがクラレンスの最期の様子である。
このスズメは戦争中の一時、その愛らしい芸で防空壕にある人々を勇気付けたという。
けれども、それはほとんどオマケにすぎない。
人生というものはいわば自分が本当に愛したものたちによってしか形作られない。
クラレンスという名のちっぽけなスズメは、クレア・キップスという婦人の人生の大切な一部になっていたのだ。
そしてクラレンスにとっては、クレアがそのほとんどすべてだった、ということだ。
2012年はこんな本を読むことから始まった。
それは、なかなかワルクナイ一年の始まり方だったと思う。
もちろん、読後〈酒神バッカスの信者〉たる私が、お屠蘇を再び飲み始めたことは言うまでもない。