陽だまりのおじさん
もしも中学生の時に淡い思いを寄せていた異性に再会したら?その相手がとびきりステキな大人になっていたら?しかも自分を慕ってくれているとしたら?そりゃあもう、運命の相手だと思わずにはいられないだろう。
― 瀧井朝世 「新潮文庫: 越谷オサム著 『陽だまりの彼女』 解説」 ―
まきちゃんが
「せんせって、恋愛小説とかって読むんですか」
と聞くから
「私、小説といえば恋愛小説しか読みません!」
と胸を張ったら、
「えーっ!」
と女の子みんなに驚かれたけど、まきちゃん、、
「じゃあ、これ読んでみてください」
と『陽だまりの彼女』という本を貸してくれた。
「人は殺されないだろうね」
「殺されません」
と言うわけで、今日の私は子どもたちの勉強を横目に、冬日の射す椅子の上で「陽だまり」三昧でした。
で、その内容はというと、上の解説にある通り。
なんか、楽しそうでしょ。
楽しいんです。
実にうまく書けている。
真緒という名のヒロインの「学年有数のバカ」と呼ばれていた中学時代も、十年後に語り手である僕の前に現れた姿もどちらも実に魅力的に書かれていて、なかなか楽しい。
おじさんだってこの真緒ちゃんには惚れてしまう。
いいなあ、なんて、年甲斐もなく顔がゆるんでくる。
でもね、話は二転三転して、最後のページを読み終えると、・・・・・
これは筋が話せない話なんですな。
話してもいけど、ひょっとしたらこれから読むかもしれない人がいるんで話せない、というんではなくて、なんというか、世の中には筋を話すと、あとは、なーんにもなくなる小説、というのがあって、実はこの小説がそれでした。
つまり、最後まで読んだとたん、まるで玉手箱を開けた浦島太郎みたいにこれまで読んできたすべてが夢みたいに消えてなくなる小説なんです。
ヘンでしょ?
ヘンなんです。
どういうこと?って聞かれても、筋が言えないんだから言いようがない。
筋がないんじゃなくて、言えないんです。
なんて思いながら、さっき今日の朝日新聞の書評欄を見てたら、なんとあの元外務省主任分析官の佐藤優氏が、マルティン・ブーバーの『我と汝』と並べて、この本を書評していました。
佐藤氏によれば
《まさにこの二人の関係がブーバーの言う「我と汝」なのです》
ってことらしい。
まあ、佐藤氏のようにそんなに気張らなくても、読めば十分楽しい、と言っておけばいいと思うのですが。
とまあ、それはさておき、筋を話すと何もなくなってしまう小説、というのがずいぶん私にはおもしろかった。
ちょっといろいろ考えました。
おヒマなら読んでごらんなさい。
楽しいことは請け合います。
そして読み終えたら、きっと私の言っている意味がなんとなくわかると思うのですが。