粘土
生まのわれ甕は作りなおせるが、焼いたのはだめ。
― 『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』 (杉浦明平 訳)―
今朝の新聞に公立高校の志願倍率が出ている。
こちらはあと20日足らずで高校入試だ。
と、いうわけで、今日も朝から3年生たちが来ている。
早い子は例によって八時から。
(ふふふ、今日は私もちゃんと起きてた。)
おおかたはふだん通りなのだが、倍率が出て意味もなくひどくアセっている子もいれば、一方では「倍率」の意味もよくわかっていないような子もいて、どっちも本当に大丈夫かいな、と思ってしまう。
もっとも、そんな子供たちもあと5年か10年もすればちゃんとした大人になっているのだから、不思議と言えば不思議だ。
たぶん、子供というのはみんなまだ乾いていない粘土で作られた甕なのだ。
中学ではまだ穴が空いていたり、あるいはちゃんとした形をしていなくても、高校で、あるいはそこを卒業した後からでも、いくらでも作り直すことができるのだ。
その間に出会う先生や友人、あるいは先輩たちによって、どんどん自分を作りかえることができる。
そうして、ちゃんとした甕になる。
では、いくらでも作り直すことが出来るんだからいつまででも水気を帯びた粘土のままの方がいいのか、と言えば、けっしてそうではないだろう。
大人になるとは、やわらかい粘土が、熱い火の中を通り抜けて、ちゃんとした硬い甕になって、その中に水や穀物を蓄えることが出来るものになるということなのだから。
そうやって、一人一人が社会の中でそれぞれの役割を担っていくことなのだ。
私はたぶんこの塾で、子どもたちに「形」を与えるよりは、むしろ、世間では余計と思われるような湿った粘土をどんどん継ぎ足していくことばかりやっているのかもしれない。
もっとも、私の与える土がそれまで彼らが持っていた土とちっともなじまない子もいるんだが。
まあ、そんな大人もいてもいい。
要らない土なら後から捨てればいい。
それに「形」を整えてくれる人はちゃんとほかにいるはずなんだから。
それに、きっと余計な土が付いている方が大きな甕になるんじゃないかな、と、どこかで私は思っているらしい。
ともかく、入試まであと18日。
風邪を引かず、みんな無事に試験に合格してもらいたいものだ。
というわけで、明日も一日私は子どもの相手です。