肖像画と写真
話さないということは言うべきことがないということを意味しない。言葉に出して喋らない人は、形態や映像においてのみ、また顔つきや身振りを通してのみ表現できるもので一杯なのかもしれないのだ。
― ベラ・バラージュ 『視覚的人間』 (佐々木基一・高村宏 訳)―
昔、「文士」という人たちがいて、みんながみんなたばこをふかしていたらしい。
彼らの多くはどうやら酒も飲んでいた。
碁を打っているのもいる。
彫刻をじっと見ている人もいる。
もちろん「文士」だから原稿も書いている。
病室で、端正な机で、小切手が無造作に置いてある机で、そして世界一散らかった部屋で。
そして横にたばこがある。
渋谷の「たばこと塩の博物館」というところで入場料100円を払って
《紫煙と文士たち 林忠雄 写真展》
というのを観てきた。
入ったところに酒場のカウンターのいすの上に胡坐をかいた等身大の太宰治の写真。
その横に太宰が座っているのと同じ丸椅子があって、そこに座った写真を自由に撮ってくださいと書いてある。
太宰と並んで一緒に酒を飲んでるみたいになるんだろうか。
カメラは持っていたが誰に撮ってもらえというのだ。
大石君あたりと一緒だったら、絶対撮ってもらったのに!
それにしても、「文士」というのは、なんとまあ、どいつもこいつもたばこを吹かし酒ばかり飲んでいることだろう。
安吾や織田作はまあわかるが、三島由紀夫や司馬遼太郎までたばこをふかしている。
井伏鱒二の机の上にあるのはショートホープだった。
どれも見たことのある写真ばかりだったが、実におもしろかった。
私はすっかり愉快になってしまった。
本当はフェルメールを観たついでに寄ったのだが、こっちがあんまりおもしろくてフェルメールの印象が薄くなってしまったほどだ。
肖像画と肖像写真。
印象が写真の方に傾くのは、対象を私が知っているかいないかということなんだろうか。
そうではないのだ、という気がする。
そういえば恵比寿には「東京都写真美術館」というのがあったなあと、山手線に乗る。
線路の南側の斜面には一昨日の雪がまだ残っている。
どこの国ともわからぬ恵比寿ガーデンプレイスの中を歩いて美術館にたどり着くと
《ストリート・ライフ ヨーロッパを見つめた7人の写真家たち》
というのをやっていたので、観ることにする。
おもしろい。
19世紀後半から20世紀初頭のヨーロッパに生きていた知らない人々の姿がおもしろい。
「おもしろい」と言うより「いとおしい」と言うべきなのだろうか。
帽子をかぶり、ステッキをついて正装して顔だけをこちらに向けた三人の若い農夫。
乳母車一杯に薪を積んで運ぶ女たち。
戸口の床を拭く新妻。
失業者は失業者の顔をし、旅芸人は旅芸人の顔をし、壁職人の親方はちゃんと親方の顔をしている。
それらは17世紀のオランダの人たちを描いたあの展覧会のどの絵よりおもしろい。
それはなぜなんだろう。
人が少ない分、一枚一枚をじっと見る時間が多かったせいだろうか。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
写真と絵。
写真の力と絵の力。
それはまったくちがうことは知っているが、重なる部分もあって、その部分で17世紀のオランダの絵は19世紀の写真に負けている。
やがて写真にとって代わられる部分しか描けなかった絵画の弱さ、とでも言うべきなのだろうか。
フェルメールが他の画家たちから抜きん出ているのは、そうではない何かが絵の中にあるからだ。
というわけで今日の歩数は14382歩。
大いに歩いたがなかなか元気である。