若菜
春日野の雪間をわけて生(お)ひ出でくる草のはつかに見えし君かも
壬生忠岑(みぶのただみね)
― 『古今和歌集』 (奥村恆哉 校注) ―
昔人が春の野に出て若菜摘んだという七草の日の朝、凱風舎のページにまた〈大石君のブログ〉の緑を見るうれしさ!
実にすばらしい!
今日引用した古今集の歌の解釈は
春日野の残雪をおしわけて萌え出る若草のように、わずかに垣間見た、あの初々しいあなた!
となっていて、これは『古今集』の中では「春歌」ではなく「恋歌」に分類されている。
事実、この歌の前半の
春日野の雪間をわけて生(お)ひ出でくる
までは
はつかに見えし
を引っ張り出すためだけの序詞に過ぎないんだけれど、でも今日の引用の意図はむしろ「春歌」気分だな。
でも「はつかに」見えた大石君をこれからはずっと見ていたいものだという意味では「恋歌」かな。
そういえば『新古今』の「春歌」には私の好きなこんな歌もあるな。
夕月夜(ゆふづくよ)潮みちくらし 難波江(なにはえ)のあしの若葉にこゆるしらなみ
藤原 秀能 (ひじわら ひでたふ)
二句切れが気持ちいですな。
意味を書いておけば
空に美しく月がかかる夕べ、どうやら潮が満ちて来るらしいぞ
ほらほら難波の入り江の蘆の若葉を越えて月に照らされた美しい白波が寄せているもの
ってところかしら。
大石君もいよいよ満ち潮になって来そうだ。
でも、本当は今日の気分に一番ふさわしいのは万葉集の志貴皇子の歌だね。
石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の萌え出づる春になりにけるかも
(冬の間水量が少なかった滝も今は雪解け。溢れる水が今石をたたいて流れ下るその滝の傍らに緑やわらかなワラビも萌え出てくる春になったなあ。)
うん、これしかないね。