副知事
それらの話はみんなも知っていたが、楽しいのはその語り口である。
― トレヴェニアン 『シブミ』 (菊池光 訳) ―
こないだ行った本屋の文庫本の棚にトレヴェニアンという名前を見つけて懐かしくなって買ってしまった。
トレヴェニアン、と言えば、訳者が北村太郎、というだけで買った『夢果つる街』がいたく心に沁みて参ってしまい、同じく角川文庫で出た『バスク、真夏の死』も実におもしろかったことを覚えているが、どちらもいまは手元にない。
けれど映画にもなった『アイガ―・サンクション』は文庫になったとき買ったが、最後まで読めなかった。
たぶん、『夢果つる街』とまるで違う文章に嫌気がさしたのだと思う。
あるいはもっとちがう理由があるのかもわからないが、よくわからない。
というわけで、私には30年ぶりくらいのトレヴェニアンである。
もっとも、この小説も日本で最初の翻訳が出たのは1980年というから、ずいぶん時期遅れに読むことになる。
私にとってこれが『夢果つる街』なのか『アイガ―・サンクション』になるのかわからなかったが、とりあえず本屋で見た目次が
第一部 フセキ
第二部 サバキ
第三部 セキ
第四部 ウッテガエ (なぜ「ウッテガエシ」でないのかは不明)
第五部 シチョウ
第六部 ツル ノ スゴモリ
と囲碁用語が並んでいたので買ってしまったのだ。
まあ一挙に読んでしまったところをみると、おもしろかったということだが『夢果つる街』と比べるのはちと酷な気がする。
もっとも私に残っているのは30年前の印象だけなのだが。
もう十年以上前になるだろうか、今は石原慎太郎の下で都の副知事をやっている男が、教育テレビで太宰治について何やら語っている番組があった。
その中で、彼は、井伏鱒二を種本を書き写すだけの小説家だとけなしていた。
彼がその証拠として挙げていたのは、「山椒魚」にも筋が全く同じ小説が西洋にあるということで、まるで鬼の首でも取ったかのようにそのことを強調していた。
私は、こいつはバカじゃあるまいか、と思った。
小説や映画のおもしろさを〈筋〉にあると思っているは中学生である。
この人は芸術ということを何もわかってはいないのだ。
一番わかりやすいのは落語だろうが、歌舞伎だって、音楽だって、絵画だって、それをどう語り、どう演じ、どう奏で、どう描くかということのなかに〈芸〉があり〈術〉があるのであって、それ以外どこにも芸術なんて存在しない。
文学だって同じことだ。
・・・ということを引用の文を読んだとき思い出したんだが、これ書いている私の文章に芸があるとは思えないなあ。