陽射しがポカ
一日の仕事の半分を十時までに片付けないような人は、たいていあと半分はやらないで終わります。
― エミリー・ブロンテ 『嵐が丘』 ―
昔のノートにあった『嵐が丘』からのたった一つの抜き書きが、まったく本筋と関係のないこの物語の語り手である家政婦のセリフだというのは、よほどこのセリフが当時の自分の身に沁みたからなのだろうが、いまこれを読んでも、やはり身に応えることに変わりはない。
もっとも私に「一日の仕事」と称すべきものがあるのかというとそんなものがあるはずもないのだが、さすがに掃除などやるべきことが頭をよぎる年の瀬ともなれば、やはり自分はこの家政婦に返す言葉を持たない男なのだと思わざるを得なくなる。
冬休み、午前十時は受験生の相手をしているので、むろん「仕事の半分」を済ませるなんてことはできないのだが、子どもたちが帰って、はて何もすることがなくなっても、ガラス戸さえ閉めておけば日が射して温室の中にいるような午後の部屋のいたく座り心地のよい椅子に腰を下ろして、部屋の片付けは後回しに何急ぐことない本を開いている。
そして、気が付けば居眠り。
いつの間にか日がかげって寒くなった部屋にそんな居眠りから覚めてみれば、なるほど仕事の半分を十時までに終わらせなかったのはなにも一日の話ではなく、たぶん私の人生そのものもそんなふうであったわけで、そうやって早い冬の日暮れを迎えようとしているのだなあ、と大いに得心してなんだか愉快になる。
自分のダメさ加減に気づいて愉快になる、というのは、相当高級な心の動きなのだが、そんな心の動きを自賛している暇があったらまず体を動かさんかい、と部屋が言うのが年の暮れというもので、そんな時は口うるさい奥さんから逃れるごとく、とりあえず飯でも食って来ようと外に出てみれば、外はまだたっぷり日差しが残っていて、公園の草の上に猫が日向ぼっこをしている。
店でてんぷらを頼んで、そういえば冬休みは夜の塾はお休みなのだと、ついついついでに熱燗を頼んでしまうようでは、午後四時からの「仕事」もまあ期待薄というものだが、こういう昼間の酒は、はなはだうまい。
もちろん一合で十分だが、そんなんで、そもそも「仕事」をやる気があったのか、と問われれば、たぶん、なかったんです、と答えるしかない。
部屋に帰って明かりをつけ、コーヒーを淹れて始めるのは、さっきの読書の続き。
ストーブもつけてたいへん暖かい。
うーん、家政婦を持たぬ根っからの怠け者の一年はまたしてもこんなふうに終わっていくなあ。