凱風舎
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三日月の舟

 

  夕星(ゆうづつ)は、
  かがやく朝が 八方へ 散らしたものを
  みな もとへ 連れかへす。
  羊をかえし、
  山羊をかえし、
  幼な子をまた 母の手に
  連れかえす。

 

  ― P・L・F・サッポオ  (呉茂一 訳) ―

 

 昨日の夕方、少女が爪で紙にまあるく跡をつけたような白いかぼそい月が出ていた。
 そして、その細い弧のまん中と円の中心とを結び延長した線上のはるか上に金星が明るく輝いていた。
 あ、ひょっとしたら、明日は・・・と思った。

 もう、20年以上前になる。
 やはり冬の夕暮れだった。
 土曜日だった。
 その日私は中山競馬場のスタンドに座っていた。
 すべてのレースが終った午後4時過ぎ、馬場から目を上げるとまだ明るい青空に三日月が浮かんでいた。
 しかし驚いたのはそのすぐ真上に金星があったことだ。
 それはおとぎ話か絵本の中の話のようだった。
 月と同じくらい明るく輝くその星はまるで三日月の舟に乗って空を渡っているかのように見えたのだ。
 競馬場を出た広い畑の中の道を私はその月の舟ばかり見て歩いていた。
 そうやっていると、目の錯覚だろうか、金星は次第に月に近づいているように見える。
 しかし、それが私の錯覚でなかったことには、やがて金星は消えて見えなくなってしまったのだ。
 どこに、って、月の裏側に! 
 え、そんなことってあるの。
 私はすっかり興奮してしまった。
 電車に乗り、電車の窓からも月を見ていた。
 電車が津田沼に着いたとき、すっかり暮れた空にはやはり三日月があるばかりだった。
 ところが、見ているとやがて、三日月の舟の底の部分がぷっくりとふくらみ、再び金星が顔を出し、見る見る月から遠ざかって行くのだ。
 それは、月の弓弦から放たれた矢、と言うよりはむしろ月からこぼれた金の滴のような。
 私はすっかりしあわせな気分だった。

 それと同じことがひょっとしたら今日も…と思ったが、今日の金星は月からすこし東にずれて月よりもやや低いところに光っていた。
 けれども美しい夕暮れだった。