「冬期講習」
「これはシラーの翻訳です」、彼は言った。
「沢山だ、分かっているよ、君は外国語も知っているのか」
「フランス語とドイツ語を知っています。英語も少し」
「それはおめでとう。なぜ早く言わなかったんだ。君は大物になれるよ。」
― ゴンチャロフ 『平凡物語』 (井上満 訳) ―
「先生。立点、でいいんですよね」
英語の受動態の問題をみんながやっているとき突然イナオ君が声を上げる。
「立点?」
わけがわからない。
「リッテン!」
イナオ君は自信満々に繰り返す。
「わからんなあ、なんや、それ」
「えーとですね、《書く》の過去分詞」
「え?おお、writtenのことか」
私の発音も相当のものだが、イナオ君のそれには及ばない。
まあ、たしかに英語の勉強をしているんだから、こっちもそれぐらいの想像はしてやるべきだったが、まず私の頭には漢字が浮かんできたんだから、しょうがない。
「おまえ、《リッテン》って、それじゃあどう考えても《沸点》のイトコみたいやないか」
「すいません」
まあ、謝るほどのことではない。
よくあることである。
かつて、金沢・片町の山蓄レコード店の2階のクラシックコーナーで、勝田・戸瀬氏と一緒にいた高校時代の鹿田氏は
《BACH》
と書かれているジャケットを手に
「うーん、《バッチ》かあ!」
と呟いて
「ダラんねえか。さ、《バッハ》やがいや」
と二人の失笑を買ってしまったのは、教養の点ではともかく、まあドイツ語を知らぬ身なれば仕方もないが、勢い余って、帰る際、階段のところにあった
WATCH YOUR STEP
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「ワッハ・ユア・ステップ!」
本気で読んでしまったそうである。
羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く。
足下には気をつけなければならない。
高校生でこれである。
中学生の「リッテン」ぐらい、たいしたことはない。