クリスマス
あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れたことを見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
― 『新訳聖書』 「マタイによる福音書」 ―
コーヒー豆を買いに街に出ました。
今日も、4時過ぎの冬の空はおおかたの光を失い、西の空にささやかな夕焼けだけを残して暮れてゆこうとしていました。
京成の陸橋を渡るとき線路だけがわずかにそんな空の光を反射しながら西に向かってゆるやかにカーブしているのが見えます。
他の季節、すこし目ざわりに見える道の上の電線も、冬の日暮れだけはその影絵が美しいものに思えます。
人びとのゆきかう通りは、子どもたちのプレゼントをもらえるしあわせと、大人たちのプレゼントをあげられるしあわせでやさしい色をしているようです。
そのどちらも、もちろん、とてもよいことです。
今夜はクリスマスイブです。
おかげで私までなんとなくニコニコした気分になります。
大切なひとを大切だと思うことは大切なことです。
大切なひとを忘れると人は自分を大切にしなくなります。
だから自分に大切なひとがいることを思い出させる日が年の終りにあることはよいことです。
O・ヘンリーの『賢者の贈り物』が描いたクリスマスとはそんな日でした。
もちろん私たちの多くはキリスト教徒ではありません。
けれども、日本人がこれを受け入れたのはよいことでした。
たとえそれが西洋人の信仰からは遠く隔たったものであったにしても、たぶん多くの日本人は無意識のうちに『賢者の贈り物』を理想としながら、この日を受け入れたのです。
日本のクリスマスは日本人の「クリスマス」です。
もちろんほんとうは、人というものは、本人がまるであげたつもりでないときこそ、いちばんたくさんのものを相手に与えているものなのです。
ごくあたりまえのことをやっているつもりのとき、人は最も多くを与えます。
たとえば、子どもたちはまったく自分たちでは何も気づかずにたくさんの喜ばしいことを大人たちに与えてくれています。
まったく彼らは自分の左手に自分たちの右手のやっていることをまるで知らさずにいるのです。
だからこそ、彼らは神に祝福された者と呼ばれるのでしょう。
そして、きっとサンタさんの贈り物というのは、そんな子供たちへの、大人たちがそれと気づかないでしているお礼なのかもしれません。