凱風舎
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比喩

 

 

 梯子というものは何かに立てかけなければならない。
 立てかける何かとは、彼がこれから上ろうとする当のものだ。
 たとえば目の前の堅くて高い壁のような。

 何も立てかけるものがないところに梯子を立て、そこをするすると上っていくのは出初め式の消防隊員のようなものだ。
 梯子の周りでは仲間が纏(まとい)を振り、観客は拍手するが、それは曲芸であって、もちろん梯子の上の男が空に届いたわけではない。
 梯子のてっぺんに腹をのせて腹ばいになり両手を広げてみせても、彼の手が何かをつかめるわけではない。
 いや、むしろ彼の手が何も掴んでいないことに観客は拍手するのだ。
 曲芸とはそんなものだ。

 

 おやおや、これは何の比喩として書き始めたのか。
 はじめの三行を書いた時に思っていたことが、比喩として出したはずの「梯子」というものの定義の探究にかまけて、結局はじめに意図していたこととはまるで違う比喩になってしまう。
 だが、それはわたしにいつもありがちなことだ。
 言うなれば、それは、梯子を立てかけたはずの壁がいつの間にか消えてしまうみたいなものだ。
 気が付くと、いつもわたしは誰も見ていない曲芸を一人でやっただけに終わる。
 目を転ずれば、壁は相変わらずわたしの後に立っている。

  (そうそう、これは「放射線量」について書こうと思っていたのだった。
 いま語られているシーベルトとかベクレルという「放射線量」は、そこに「梯子」をかけてだいじょうぶなほどの「壁」なのかしら、ということを書こうと思っていたのだった。
 素人のわたしにはなんだか舞台の上の紙で作られた壁に梯子をかけたふりをして大騒ぎをしているような気がするのだが。
 それにしても、困ったことに、話がずれて引用の言葉すら思いつかなくなってしまった)