凱風舎
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つむぐ

 

 

 少しずつ紡がれている関係は居心地がいい
 恋ではないが

 

     ― 林 あまり 「スプーン」 -

 

 

 土曜日曜と、午後から夜にかけて高校生の子たちが来ていた。
 どの高校も期末試験が今週から始まるのだ。
 英語や古典がわからないとたずねる子もいるが、多くは数学と理科(化学・物理)のわからないところをわたしに聞く。
 わからなさ、の質が、語学と理科とではちがうらしい。

 前にも書いたが、学年も学校もちがう子供たちが時折質問をしては勝手に勉強したり、持って来たお菓子をつまんでくつろいだりする休日の部屋の雰囲気は、なんだか居心地がいい。

 居心地、と言えば、林あまりは
  すこしずつ紡がれている関係は居心地がいい
と書いている。
 なあるほどな、と思う。

 紡ぐ、という言葉は、綿や繭からその細い繊維を引き出して縒り合せ、それで糸を作ることだが、彼女が「居心地がいい」と言うのは、「紡ぐ」ことではなく「紡がれる」ことだ。
 能動ではなく受動。
 「紡がれる」とは、自分の中にある自分でも気付かなかった何かが、まるで当り前のことのように、誰かに「すこしずつ」外に引き出されて形になっていくことだろう。
 そんな関係は「居心地がいい」、と彼女は言うのだ。

 蚕が自ら糸を吐くのは自らを鎧うためだ。
 やわらかな傷つきやすい自分を守るために固く繭でおおうのだ。
 そんな繭が、今かたわらにいる者によって「すこしずつ」紡がれていく。
 細い細い、ちょっと乱暴に扱われればすぐにも切れてしまいそうなその繊維を、すこしずつすこしずつ引き出しては、ゆっくりと自分の繭を解きほぐしてくれる者と共にいる心地よさ。
 それを彼女は言っているのだ。
 それは「紡がれている」という受け身の思いもないほどに自然な紡ぎだ。
 「北風と太陽」のお話のように、まるで自分から上着をぬいだようでありながら、本当はお日様がそうさせてくれたことをふと気付くような関係だ。
 そう言えば、試験前のこの部屋の居心地のよさは、窓を開け放った夏の日よりも、むしろ閉め切ったガラス窓から日差しが部屋の奥まで届く今日のような冬の日の方が大きいような気がするのも、お日さまの暖かさをより多く感じるせいなのだろうか。
 まあ、生徒たちもわたしも、お互い何を紡いだわけでもないだが。