凱風舎
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不用心

 

 

 

 心配することと用心することは、似ているようでちがう。心配ってのは、用心しない者が口にする言い訳だ。

 

   ― 堀江敏幸 「トンネルのおじさん」 (『未見坂』)―

 

 昨日は「勤労感謝の日」だというのに朝早くに起こされたのは、習志野の三つの中学校が今日と明日、期末試験だからで、なにやら人の気配に目を覚ますと台所と部屋とを仕切る引き戸のところに三年生の女の子が少し戸惑ったような顔で立っていた。
 もっとも、早くに起こされた、といっても、時間は八時半過ぎだったのだからむしろそれはわたしの寝坊と言うべきもので、
「おーっ。早いな。少し待ってろ」
と言いつつあわててズボンをはき布団をあげた。
 前の夜読んだ小説がなんだかとても気持ちのいい小説だったので、いい気になって酒を飲み出して夜更かししただけのことなのであるが、こんな日に寝坊はいけない。
 それでも、顔を洗っている間にその子にガリガリ挽いてもらっていた豆で淹れたコーヒーを口にしたらなんとなく人心地がついた。
 「先生は、寝る時部屋に鍵、掛けないんですか?」
 机に英語のワークを広げていた女の子がきくから
 「掛けないよ」
とこたえると、
 「えーっ。怖くないですかぁ」
 「怖くないよ、おじさんだもの」
なんて話してるうちになんとなく集まった子供たちがそれぞれ自分の勉強をし始めたので、わたしは椅子に座っていつもより丁寧に新聞の囲碁欄を眺めていたりしてた。

 鍵の掛かっていないドアを開けて部屋に入ったらわたしがまだ布団の中にいた、などというのは、かつてわたしの生徒だった者たちにとってはたぶん何の違和感もなく慣れ親しんだ出来事なんだけれど、年を取ってずいぶんと早起きになったこのごろではそれもまれになっていたから、生徒も驚いたのだろう。
 そもそも部屋に鍵をかけないということが、世間一般ではかなり不思議なことなのかもしれない。
 けれども、わたしが家に鍵をかける習慣というものがないのは故郷の家にいたころからで、思えば不用心この上ないが、わたしの安心感覚というのは落語に出てくる長屋の八つあん、熊さん並みということなんだろう。
 というよりむしろ、季節は、ずれるけれど、山村暮鳥の

  農家のまひるは
  ひつそりと
  西瓜のるすばんだ
  大(でつ)かい奴がごろんと一つ
  座敷のまん中にころがってゐる
  おい、泥棒がへえるぞ
  わたしが西瓜だつたら
  どうして噴出さずにゐられたらう
                             (「西瓜の詩」)

などという詩に描かれた戦前の農村の感覚が隔世遺伝のようにわたしの中にそのまま残っているのかもしれない。

 引用は、夏休み伯父さんのところへ行った小学生が、ふだん煙草ばっかりすってるおじさんが山に行った時にはちっとも吸わないことを不思議に思って、そのわけをきいたときにその伯父さんが答える言葉。
 山に入ったら、山火事の「用心」をする。
 なんて正しい言葉だ。
 生活の場がそこにある人が言える言葉なんだと思う。
 それにひきかえ、わたしが「心配」すらしていないのはただただ神経が杜撰にできているだけなのだ。
 それは生活者としての「まっとうな想像力」が欠けているということなのだ。
 そんな男に、とてもじゃないが、こんなにいい言葉は吐けない。