凱風舎
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銀座と鹿児島

 

 

 何、あれはな、空に吊るした銀紙ぢやよ
 かう、ボール紙を剪(き)つて、それに銀紙を張る、
 それを綱か何かで、空に吊るし上げる、
 するとそれが夜になって、空の奥であのやうに
 光るのぢや。分かったか、さもなけれあ空にあんなものはないのぢや

 

     ― 中原中也 「星とピエロ」 ―

 

 

 昔、勉強に来ていた小学5年生の女の子の一人が
  「わたし、こないだ銀座に行ったんだぁ」
とすこし自慢気に言った。
 すると、その言葉に、別の女の子がまじめな顔でこう答えた。
  「ふーん。でもわたしも、鹿児島に行ったことあるよぉ」

 たまたまその場にいた高校生のお兄さんお姉さんたちは声をあげて笑った。
 もちろん、わたしも大笑いした。
 女の子たちはキョトンとして、なぜ笑われているのかちっともわかってはいなかった。 

 中学三年生の子供たちは今天体の勉強をしている。
 試験前だというので彼らが広げているワークブックに、こんな問題が載っていた。

 問い: カシオペア座を形づくっている星たちは皆地球からの距離が同じですか。

 もちろん、地球から見ればそれらはみな同じ遠さで輝いているように見えるあれらの星々もその距離はみな違う、というのが正解だ。
 科学はそう言うし、この塾の先生だってそう教える。
 けれど、翻って考えてみたとき、光が一年間に進む距離を単位に測らなければならないほど遠くにある星々のその距離の違いとはいったいなんなんだろう。
 わたしたちから見て、実は1光年も100万光年もその遠さにおいては実は同じことなのではあるまいか。
 それは、小学五年生にとっては、〈銀座〉も〈鹿児島〉も非日常的遠さにあることにおいて同列であることと同じだ。

 

 いつの頃だったろう、ふと、自分の過去に起きたことや出会った人びとがみな一様に同じ遠さにあるように思えるようになってしまっていることに気が付いたことがある。
 それまではちゃんと時系列に沿って過去は並んでいるものと思い込んでいたのに、本当はすべてがまるで天球に貼りついた星たちのように今のわたしからは等距離に見えていることに気付いたのだ。
  あゝ、そうだったのか
と思った。
 これは誰でも年を取ればそうなるのだろうか。
 よくはわからない。
 よくわからないが、ともかく今のわたしには過去はそんなふうに見えている。
 そして、それはちっともわることじゃないような気がしている。
 〈銀座〉も〈鹿児島〉もかつて自分がそこにいたことがある遠い場所であることに違いはないのだ。
 たぶん「時間」という思い込みを捨てれば「過去」とは本当はそんなものなのだという気がしている。