秋のシンバル
マラルメはパリの郊外で紅葉し出した森の木を指し、「あれが地上で秋が打つ最初のシンバルだ、」と言った。
― 吉田健一 『ヨオロッパの世紀末』 ―
公孫樹が色づく季節が来た。
毎年一本の公孫樹の樹全体が黄色に変わったのを目にしてわたしが思い出すのは、『ヨオロッパの世紀末』の中にマラルメの言葉として引用されている、この
あれが地上で秋が打つ最初のシンバルだ
という詩句だ。(もっとも、これが本当に詩の一行なのかどうか知らないのだが)
本当は、秋が早いヨーロッパとちがって、初冬にもみぢする日本の公孫樹に対してはむしろ
あれが地上で秋が打つ最後のシンバルだ
季節はやがて静かな冬へと変わる
と言うべきなのかもしれないが、それにしてもすばらしい詩句だ。
高校三年のとき出版されたこの本で、当時のわたしが本当にわかったつもりになれたのはこの言葉だけだったのかもしれない。
すくなくともそのとき記憶に残った言葉はこれだけだったのだから。
吉田健一は「紅葉」と書いているのに、わたしが「黄葉」した公孫樹しか思い浮かばないのは、もちろん、マラルメが「シンバル」と書いているからだ。
「シンバル」と聞けば、だれだってあの音を思い出すが、同時にステージで光を浴びてきらめくブラス(真鍮)の色が思い浮かべるはずだ。
季節の鮮やかな変わり目を音を表す「シンバル」という言葉で比喩しながら、一方その一言でその色まで目に見えるようにマラルメはこの詩句で示しているのだと思う。
あなたたちだって、この詩句を知って夕日に輝く一本の公孫樹を目にしたなら、きっとそれが違ったふうに見えるようになると思うんだが・・・。
もちろん、マラルメが目にした紅葉した木は広葉樹特有の丸身を持っていたからこそ、「シンバル」なのだろうが、イチョウはどちらかと言えばひょろ長いから、ひょっとすれば、同じブラスでも
地上で秋が吹きならす最初のトランペットだ
と言いたくなるかもしれない。
そうなると、なんだかチャイコフスキーの4番の交響曲みたいになるね。
(もっともあの金管の始まりはホルンからだったっけ)
ところで、今日引用の一行を探すためこの本をひっくり返していたら、こんな言葉にも傍線が引いてあった。
一般にヨオロッパがもっともヨオロッパだったのは十九世紀であると考えられている。(中略)外に向かってのヨオロッパの発展が未曽有の規模で行われたのがこの時代だったということは確かに言える。しかしそれは発展であるよりはむしろ膨張であり、たとえば太陽が熱を失って消滅する前の状態を思わせ、その類推で十九世紀以後のヨオロッパが早晩亡びる他ないと見るのはただそれだけの根拠しかないことであるが、それは別として太陽が冷たくなる前に膨張してそれまでの何層倍かの熱を発するのが最も太陽が太陽であることではないことも明らかである。
何度も書くがわたしはTPPの是非は知らない。
けれど、それによって日本が「アジアの発展を取りこむ」などという言説が意味しているものが、自ら発展する能力を失くした国が自ら亡びるために行おうとする単なる「膨張」でしかないようにわたしには思える。
もちろん、こんな類推には「ただそれだけの根拠しかない」のだが。