流星群
高等学校の学生のころ、日本海の砂丘の上で、ひとりマントに身を包み、仰向けに横たわって、星の流れるのを見たことがある。十一月の凍った星座から、一条の青光をひらめかし忽焉(こつえん)とかき消えたその星の孤独な所業ほど、強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかった。私はいつまでも砂丘の上に横たわっていた。自分こそ、やがて落ちてくるその星を己が額に受けとめる、地上におけるただ一人の人間であることを、私はいささかも疑わなかった。
それから今日まで十数年の歳月がたった。今宵、この国の多恨なる青春の亡骸(なきがら)――鉄屑と瓦礫の荒涼たる都会の風景の上に、長く尾をひいて疾走する一個の星を見た。眼をとじ煉瓦を枕にしている私の額には、もはや何ものも落ちてこようとは思われなかった。その一瞬の小さい祭典の無縁さ。戦乱荒亡の中に喪失した己が青春に似て、その星の行方は知るべくもない。ただ、いつまでも私の瞼(まぶた)から消えないものは、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する星というものの終焉のおどろくべき清潔さだけであった。
― 井上靖 「流星」 ―
こないだ金沢に帰った時、中央公園にある赤レンガの旧制四高の校舎の前を通ったら、井上靖の「流星」という詩の一部が彫られた石碑があるのを見つけた。
立ち止まってひさしぶりに読んだその詩に
十一月
とあるのを見て、
「ああ、そうだったのか!」
と思った。
昔はただ冬の内灘砂丘に寝転んでいる詩だと思っていただけだったが、若き日の井上靖が見た流れ星は獅子座の流星群のそれだったのだとそのときはじめて気づいた。
なんだか愉快だった。
毎年11月18日の未明はたくさんの星が降る夜になる。
地球の公転軌道上にある宇宙の塵の中に毎年同じ日に地球が舞い戻るからだ。
今から十年ほど前のその夜には地面が明るくなるほどたくさんの明るい流星が落ちたものだった。
〈流星雨〉などと呼ばれるものを目にしたのはあの年だけだったが、そんなものが本当にあるなんて思いもかけぬことだった。
あれは、これも二十年ほど昔になるが、本当に尾を引いて空に浮かんでいたへ―ル・ボップ彗星を見たことと並んで、生まれてきてよかったなあと思えた経験だった。
そんなことを仕合せだと思うってのも変だが、やっぱりそれはしあわせなことだったのだと思う。
うまくは言えないが。
はてさて、井上靖がこの詩を作った年よりもずっと年を取ってしまった私の額の上に星なんて落ちて来る気遣いはもちろんありはしないが、今年はどんな流れ星が降るのだろう。
今年はあんまり前宣伝もないみたいだから、それほどの星は降らないのかもしれない。
けれども、それを見上げた若者の中に、いつかその一つが自分の額の上に落ちてくると信じる者が今もどこかにいることは知っている。