誤解
日本では漢訳仏典を通して仏教を受容したのだから、最初からまちがいの多い版本に依拠している。しかも、中国と同じに、漢訳された仏典の漢語を日本語風に理解していたから二重の誤謬を犯している。
― 張競 (植木雅俊著 『仏教 本当の教え』 書評) ―
今朝の毎日新聞の書評欄に
原始仏典の精読にもとづく宗教文化論
の見出しとともに上のような言葉が書かれていた。
この本の帯には
《壮大な伝言ゲームの果てに》
とあるという。
その本を読みもしないで言うのもなんだが、
いいじゃないか、誤解でも
伝言ゲームのどこが悪いんや
と思いながら読んだ。
仏典にしても聖書にしても論語にしても書かれていることは曖昧でさまざまな解釈ができる部分がたくさんある。
けれども、そのような事態が起きるのは単にテキストやあるいはその訳が不完全だからではないだろう。
書かれていることが曖昧に見えるということは、実は人がそこに書かれた本当の意味を探りたいと思うから生じることではないか。
求めなければ、「ふーん、そんなもんか」である。
たとえば、考えてもごらんなさい。
もし、或る人の何気ない一言のその後ろにある意味を考えようとするとすれば、それはその人が自分にとって大事な人だからではないか。
いったい、恋をしているとき、相手の幾様にも解釈できる言葉や態度に悩まなかった者がいるだろうか。
わたしたちがそうなるのは、恋人の言葉やふるまいの後ろに、常に秘められた意味を求めようとするからだ。
あるいはその相手が自分にそれを求めさせる何かを生じさせることを恋と呼ぶのだろう。
同じようにある書物が曖昧であり、さまざまな解釈を誘うとすれば、それは読み手がそこに本当の意味を求めようとするからだ。
あるいはそうさせる何かをその書物が持っているからだ。
それは単にそれが難解だということではない。
求めなければ、そこには書かれたこと以上のことはその本には何もないだろう。
もちろんそれを求めない書物もたくさんあるのだが。
空念仏、という言葉がある。
題目のように唱える、という言葉もある。
論語読みの論語知らず、というのもある。
そこに意味さえ求めなければ、それで十分なのだ。
だが、それでは満たされないと思う人があり、そこに書かれていることの意味を問おうとする人がいる。
祖師と呼ばれる人たちは皆そうであった。
最澄、空海、法然、親鸞、日蓮、栄西、道元・・・・。
あるいは東涯や徂徠といった江戸時代の儒者たちも同じだ。
彼らの行った思惟思索の是非について述べる見識をわたしは持たない。
けれどもその思惟思索こそが尊いのだとわたしは思う。
それが誤謬であれ誤解であれ、そこに書かれていることの意味を探ろうとする姿勢こそが思惟ということだからだ。
そこに「正解」はない。
考えるということは、巻末に「正解」が載っている数学の問題集を解くことではない。
正解を保証するのは、ただ自分の思惟の深さだけだ。
それを支えるのはその対象がすばらしいものだという思い込みだ。
「俺はあんたが思とるような人間じゃないけん」
今日テレビで見た『悪人』という映画の中で妻夫木聡の演じる男がそう言っていた。
自分は悪人だというのだ。
けれど、深津絵里が演じる女は、彼のことをそうではないと思っていた。
いい人だと思っていた。
それは誤解なのだと男は言うのだ。
けれど、それは本当に「誤解」だったのだろうか。
本当は彼女の思い込んだ彼の姿こそが正解ではないのか。
「真実」は、男(「原典」)がどう言おうと、彼女の解釈のなかにこそあるのではないか。
ぼくらの解釈はすべて「誤解」だ。
けれど恋の誤解を嗤う者をわたしは信じない。
愛する者が犯す「誤解」の向うにこそある「真実」を信じない者にいったい何語ることがあろう。
追伸 (これも誤解だったらしい)
昨夜鳴いていなかった虫が今夜はかすかに鳴いているのが聞こえます。
昨夜鳴かなかったのはあの細かな雨のせいだったのかもしれません。