凱風舎
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小さな沢庵石

 

 わたしは恋愛したことがある。しかしそれは、暮らしとは正反対のものだった。


    ― 秋山駿 『簡単な生活者の意見』 ―

      

 ヤギコは猫にしては情が濃すぎるのではないかとわたしは思っている。
 ごく小さな頃のことだが、わたしが煙草を買いに外に出ると、彼女は必ずちょこちょこと道の端の塀沿いにその後をついて来た。
 そして自販機のところでわたしに追いつくとわたしを見上げて「にゃあ」と鳴いた。
 うい奴、うい奴。
 けれども妙な猫だと思った。
 そんなことをするのはわたしの部屋で生まれた10匹以上の猫の中でも彼女だけだった。
 彼女が1歳をこえる頃からそんなことはしなくなったが、今でもわたしが出掛ける時、アパートの二階の廊下の隅に立っていつまでも鳴く。
 見えなくなっても鳴いている。
 もう慣れてしまったけれど、やっぱり妙な猫だと思う。
 もちろん彼女が何を考えて鳴いているのかわたしにはわからないのだが。

 そんなヤギコを置いて、年に3度、父母と兄の命日にわたしは国に帰る。
 餌やその他の世話は近所の女子高生に頼んではいるが、三日ほど彼女はたった一匹で部屋にいることになる。
 窓をすこし開けてあるので外との出入りは自由だが その間ヤギコが何をしているのかわたしは知らない。

 昨日、わたしはその帰郷から戻って来た。
 ひさしぶりに部屋に帰ってきたわたしの足音を聞きつけて部屋の中のヤギコが精一杯の大きな声で何度も鳴く。
 それは「おかえりなさい」を言っているというよりむしろ長かった不在をなじる調子である。
 カギを開けると、彼女は今度は甘えた声で鳴きながらわたしの足に身を擦り寄せて来る。
 そして部屋に上がったわたしの足下に身をこすり付けながら何度も何度も行き来する。
 それから荷物の整理を終えたわたしが椅子に腰を下ろすとそれを待っていたというように膝に跳び乗りわたしのお腹に足踏みをする。
 目をつぶり爪を立て一定のリズムで前脚の左右に交互に体重を乗せるのだ。
 これは彼女がかあさん猫のお乳を飲むときにいつもやっていたことだが、むろんわたしのお腹からお乳が出る気遣いはない。
 それでも11歳になった今も、アームチェアに座ったわたしの上に乗る時彼女はこれを欠かさない。
 夏の薄着の時はすこぶる痛いが、まあ、彼女にとってはいわば落ち着くための一種の儀式なのだろう。
 しばらく遊ばせた後、わたしが痛いので(なにしろ爪を立てている)頭を軽く叩くと、彼女は目を開けて今度はわたしのあごに向かって片方の前脚を伸ばす。
 これも痛いから、わたしがいやがって顔を逸らすと、彼女はうれしそうにのどを鳴らす。
 そしてわたしが顔を元に戻すとまた前脚を伸ばしてくる。
 g r r r r r r r g r r r r r
 上機嫌である。
 そんなことを何度かくりかえすと、やがて彼女は向きを変えてわたしの膝に体を移し、そこで体中の筋肉を弛緩させ背中を見せて眠りはじめる。
 もう彼女の中ではわたしの不在はなかったことになっているらしい。
 こうやってまたわたしと彼女の日常が始まる。
 膝に彼女の重みとほのかな温もりを感じながら、わたしはたまった新聞を読み始める。

 秋の夕暮れは早い。
 わたしは灯りをつけてコーヒーの豆を挽く。
 やがて、3年生たちがやって来る時間だ。
 カップを手にわたしが椅子に座ると一度床におりたヤギコがまだひざに来て眠る。  

夢の多すぎる男が、女と一緒に暮らすなんて首根っ子に沢庵石をぶら下げて歩くようなものだ。

 そんなことを書いていたのは、小林秀雄だったか、大岡昇平だったか。
 わたしには夢などないが猫すらすこし重い。
 しかしすこし温かい。