どくとるマンボウ
「ゆっくり行きましょう」
と私は意味もなくもう一度くりかえした。
しかし、風がたちまち私の乾いた唇から言葉を吹きちぎり、私たちの向かい合っている、峨々とした、巨大な世界へとひきさらって行った。
― 北杜夫 「岩尾根にて」 ―
北杜夫氏の訃報を夕刊に見る。
そうか
と思うばかりだ。
驚きはない。
また、ご冥福を祈る、などという気持ちも起きはない。
ただ、
そうか
と思うばかりだ。
記事によれば「どくとるマンボウ青春記」が出たのは68年とある。
それはわたしたちが高校に入った年だ。
ずいぶん昔のことだ。
たぶん本が出たのはその年の春休みだったような記憶がある。
当時すでに「どくとるマンボウ昆虫記」「どくとるマンボウ航海記」を読んで彼の本のおもしろさを知っていたが、この本のおもしろさは格別だった。
読みだしたわたしはすぐにその本の虜になった。
そこに書かれていた旧制高校のハチャメチャさに、わたしは高等学校というのは、スゴイ所なのだと思いながら高校に入学したのだった。
入学したわたしは、実際の高校がどんなものだったかよりも、高校とはそんなものだと思い込んで行動していたような気がする。
その後彼の本は片端から買って読んだが、それも高校3年のはじめくらいまでだったろうか、いつかわたしは彼の本は全く読まなくなった。
たぶん、自分の興味が違う方に向き始めていたのだろう。
以来40年、「どくとるマンボウ」は読んではいない。
子供たちが帰ったあと、もう一度夕刊を読み返す。
そして、思ったのだ。
高校時代の私に一番影響を与えたのは、中原中也でもドストエフスキーでもなく、実は「どくとるマンボウ」ではなかったのかと。
わたしのアルバムに一枚の白黒写真がある。
そこには、高下駄をはき白線の入った帽子をかぶりトンビを羽織って大乗寺の門のところに突っ立っているわたしが写っている。
足下には雪が積もっている。
これは司君がタンスの中から見つけた彼の父親の昔のトンビを持って来たので、芦原君と三人代わり番子に同じ格好で撮った写真だ。
それはあの本の裏表紙にあった北杜夫氏の旧制高校時代の写真を明らかに真似たものだった。
本当に影響があったかなかった、それはわからない。
けれども、彼の本の中にわたしたちが高校時代求めていた何かがあったことだけは確かなような気がする。
それが文字になり、形になっているところにわたしたちは魅かれたのだ。
そして、わたしたちが高校を終えようとするとき、わたしたちは彼の本の中にあるものとは違うものを求め始めていたのだ。
そうして、わたしたちの中で彼は過去形の人になった。
その人が死んだといって、わたしの中に悼むという気持ちはない。
ただ、彼の訃報に、彼の本に目を輝かせていた時代が自分にあったことをふと思い出しただけだ。
引用は今唯一私の手元にあった彼の作品の末尾の部分。
「どくとるマンボウ」とはまるで違う彼の志向と文体がここにある。
人というものが統一された一つの人格ではないことも彼から教わったことかもしれない。