凱風舎
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  『春と修羅』第一集から第四集までの作品に一九六の雲が登場する。

 

    草野心平 「宮澤賢治・人と作品」 (『日本詩人全集 20 宮澤賢治』)

 

 今日はこの秋で一番雲がいい日だった。
 海から伸びた幾筋もの細引きの雲は次第に幅を広げ、陸の上で何千もの魚の群れのような鱗雲にかわり、それがちょうど頭上を過ぎたあたりで青い空にまぎれ消えていく。
 そんな空。
 いっぱい歩きまわって、陸橋の上の広々とした空の下でそんな雲たちを見ていると、心が雲だけになって、この世のことや人のことなんかみんな忘れてしまう。
 そして、十月にしては汗ばむほど暑かった一日が夕暮れに変わろうとするとき、西の空でそれらの

   雲はみんなリチウムの紅い焔をあげる
                          (宮澤賢治「真空溶媒」)
ことになる。
 きれい。
 それを見てると、
  ふふふ、空の奴も今日はきっと一日愉快だったんだろうな
となんだか頬がゆるんでくる。
 そんな一日。
 
 あれら雲たちのように刻々変わるさまざまな感情や思いをぼくらは胸に浮かべてきたはずなのに、そのいくつをぼくらは覚えているんだろう。
 結局そんなことはいつかみんな忘れてしまって、いつの間にかまた新しい一日をはじめる日々が続いてきたような気がする。
 いい、わるいではなく、そうやって生きてきた。

 空があって雲がある。
 ひょとしたら、生きているとはみな胸の中にその日その日の空を持っているということなのだろう。
 そしてそこにその日その日の思いの雲が浮かぶ。
 一面の黒い雲、羊のようなほわほわした雲、飛行機雲・・・・その日その日の空に浮かんで・・・。
 生きているっていうのは、実はただそんなことなのかもしれない。