「絆」
よく見れば薺(なずな)花さく垣ねかな
芭蕉
わたしがニュースを見るのは、午後九時半過ぎから。
子供たちが帰った後、NHKの9時のニュースの後半部分を見るだけだ。
したがって、その日の野球の結果はわかってもメインニュースは実はよく知らない。
もっとも、今日で言えば小沢一郎氏の裁判が始まったというのが、はたして見るべきニュースなのかどうか。
たぶんテレビが深刻な顔をして報じる多くのニュースはほとんどわたしたちに無縁無用のものだ。
さて、今日ニュースをつけたら、ちょうど被災地の中学生の弁論大会というのが映されていた。
どの子も口々に
震災で家族のすばらしさを見つけた
とか
人と人の絆の大切さを知った
と言っていた。
それはなかなか感動的だし、それはそうだろうとも思う。
けれども、所詮それらは「作文」にすぎない。
あのような大会に出てくる子供たちは十中八九皆大人たちの気に入るようなことしか言わないものだ。
「やらせメール」と同じ、とまでは言わないが、大人の前での子供のパフォーマンスにはどこかそんな匂いがする。
優等生はどこか大人に迎合するものだ。
中に、家族友人を失った癒えぬ悲しみのみを述べたりする中学生がいたのかどうか。
たぶんそれは、はきはきした口調で人前で語るには適さない事柄だろう。
あるいは自分たちの生活をむちゃくちゃにしてしまった原発や、それをその地に誘致した大人たちを、世の仕組みを含めて批判するのは、中学生にはまだ荷がかちすぎているだろう。
たしかに「家族」やその「絆」というものは、いざとなったときもっとも頼りになるものだ。
けれど、家族の力や絆の強さをことさらに言わなければならない時代はきっと不幸なのだ。
まして、子供がそんなことをあえて口にするなんて。
そんなことをことさら言(こと)あげもせずに当り前に家族でいられた方がいいに決まっている。
そもそも「絆」とは、牛や馬をつなぎとめる綱のことだ。
だから、それはかつて人の自由を奪うものとして意識されるのが普通だった。
昔は同じ字を「ほだし」とも読んでいた。
手かせ、足かせの意味でもあった。
(たとえば、現代でも使われる
情にほだされて、ついつい・・・
などという言葉の「ほだされて」は「絆されて」と書いて、「ひきづられて」という意味だ。)
とまあ、そんな意味の「絆」なんて言葉が、そこいら中に書かれてみんながうれしそうに口にするのはなんだかイヤなことだなあ。
家族の絆なんて、芭蕉の俳句の「なずな」のちっちゃな花みたいに
あれぇ、ないと思ってたのに、やっぱりこんなところにも咲いてたんだぁ
ぐらいがちょうどいい。
というわけで、今日の引用は季節外れですけど「きずな」と「なずな」のダジャレということで・・・。