「絶対の批評」を持つ人
物は見ようとしたときにはじめて見えてくる。
礒江毅
たとえば、こんな言葉をわたしが言ったとして何の説得力があろう。
このような言葉は言うべき人が言わねば何ほどの力もない。
わたしには物をとことんまで凝視る力がない。
掻い撫でに物に触れ、ありきたりの言葉に置き換えて、したり顔にそれで事足れりと日々を過ごしているだけだ。
今日、練馬区立美術館といういうところに出かけた。
礒江毅という人の絵を見るためだ。
礒江毅という人はリーフレットによれば〈真実の写実絵画を求めた画家〉なのだそうで、その遺作80点の展覧会だった。
昭和29年に生まれ、2007年に亡くなった人だという。
彼が描いた絵を見ながら、わたしの人生に引き比べ、このように物を見つめこのように物を描いてきたその53年の生涯の時間の密度の濃さを思った。
写実絵画とは、描く対象が目の前にあり、目の前にある対象そのものが自分の描く絵の批評である絵だ。
一つ一つの絵の前に立ち止まりながら、そのような絵を描き続けることが精神にもたらすものの深さを思った。
会場には彼が20代の頃に取り組んだデューラーなどの作品の模写もいくつか展示されていたが、模写という行為もまた、自分の模写への「絶対の批評」となる原画を常に目の前に置いて行う作業なのだ。
模写をし写実の絵を書くとは「馴れる」ということのない世界に身を置きつづけるということなのだ。
それは、わたしには及びもつかない世界だ。
帰りに「深い眠り」と題された裸婦像の大きなポスターを買った。
帰って来て畳の上にひろげて見ていると、心が深々としていく。
物を見ようとして見続けた人の目がわたしにも乗り移ってくるような気がする。
とはいえ、わたしの部屋にはこのすばらしい絵をどこにも張る場所がないのであった。