「行い」と「思い」
田中美知太郎の『プラトンに学ぶ』(日本文芸社)の中に気になる言葉があった。それは同書の解説に引かれている、イタリアの作家パヴェーゼの文章である。「誰でも良い行いをすることはできる。けれども、よい思いを持つことは、ごく僅かの者にしか許されない。」
ぼくはこの言葉を見たとき、夢でも見ているのではないかと思ったが、たしかにそう書かれているのだ。
― 荒川洋治 「草の上の恋人」 ―
誰でも良い行いをすることはできる。
けれども、よい思いを持つことは、ごく僅かの者にしか許されない。
パヴェーゼ
こう昔のノートに書いてあった。
この言葉を初めて見たとき、ぼくも驚いたのだ。
そして、よくはわからないが、これはきっと正しい言葉に違いないと思ったのだ。
だから、ノートに書きつけたのだ。
そして、ずっと、この言葉を覚えていた。
けれど、何の本に出ていた言葉なのか、それは忘れてしまっていた。
それが今日、たまたま荒川洋治の『夜のある町で』という本を読み返していたら出てきた。
だから引用した。
親鸞は
善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや。
(善人ですら極楽に往生できるのだ。まして悪人が極楽に往けないことがあろうか。)
と言ったと『歎異抄』に書いてある。
その言葉と同じくらいの衝撃がパヴェーゼのこの言葉にはある。
この言葉が正しいか正しくないか、それは「良い行い」をすることと「良い思い」を持つこととどちらがたいへんなことか自分の胸に問うてみればわかる。
問うてみて、「行うこと」の方が「思うこと」よりむずかしいと思える人は、きっと善い人なのだ。
けれど、やはりぼくは「良い思い」を持つことの方がむずかしいのだと思ってしまう。
ぼくは「いい人」のふりはできるが本当に「いい人」にはなれないから。
「良い思い」を持てる人になれたらいいのにと思う。
「良い思い」を持っているとも思わず「良い行い」ができる人になれたらいいのに。