コーラ
消費のために完成した形態で存在する生産物が、葡萄が葡萄酒の原料になるように、新たに他の生産物の原料になりうる。
― マルクス 『資本論』 (エンゲルス編 向坂逸郎 訳)―
暑い。
今日も空は青く、北の方にもくもくと入道雲。
遊歩道を歩けばアブラゼミもまだしぶとくジージー鳴いて、これが9月の15日かと思うが、これが今年の9月の15日。
夏休みに入る前,京成の駅前に続くシャッター通りを歩きながら、なぜか、
今年は秋になったら「資本論」を読破せねば!
と思いついたのに、ちっとも秋らしくならないので、それも忘れていたんだが、日記を読み返したら、なにやら厳しい決意表明が書いてあったので、これも何かのお告げだろうと陽射しのまぶしい中、本を買いに街に出かけた。
JRの駅前に4店ある本屋の中で、この夏、売り場が倍くらいの広さになった丸善にもどういうわけか岩波文庫の「資本論」は2巻目から並んでいるだけ。
まあ、いいか、俺の杜撰な頭ではどこから読んでもいっしょだろう。
と、これまた杜撰にその2巻目を値段も見ずに手にとってレジに出したら、
1,155円になります。
と言われてびっくりした。
そうか、そんなに高いのか。
こんなのが9巻もあった日にゃあ、1万円かあ。
と、呆れながら外に出たら、やっぱり暑い。
少し歩いてたら、なぜかめったに立ち止まらない自動販売機の前に立っってしまった。
で、小銭を入れたはいいが、実は私、何を飲みたい、というわけではない。
ヨワッタなあと、心がためらっている間に、指が勝手にコーラのボタンを押してしまった。
コーラなんてもう何年も飲んでいないのに、何なんでしょう?
ゴロン、と落ちてきた赤い缶を手に取ったけれど、やっぱりなんでこんなものを買ったのかよくわからない。
それでも、缶の口を開けて一口飲んだ。
あの、ですね、「高校時代」の味、がしました。
アホみたいですけど、一瞬自分が高校生に戻ったみたいな気がしたんです。
高校3年の夏、夕暮れになると犀川べりに下宿していた中浜君の西日が射すクソ暑い部屋に行って500cc入りのひょろ長い緑の瓶を手にバカ話をしていた自分が、どういうわけだか不意に鮮やかによみがえってきた。
どう言ったらいいんだろう、生のままの高校生の私が、時空を超えて今の私の中にそのまま出てきたという感じ。
それは、まだ酒の味を本当には知らない頃の私です。
こういうのをきっと「白昼夢」と呼ぶんでしょうね。
私、なんだか、ぼーっと空を見上げてしまいました。
その後も一口飲むたびにやっぱり「高校時代」の味がしました。
なんとなくくすぐったいような気分でした。
けれど、おじさんになった私は炭酸でおなかが一杯になったのか、コーラの赤い缶全部は飲めずに半分残った空き缶をそばのゴミ箱に捨てたのでした。
それにしても、コーラがそんな白昼夢の〈原料〉になろうとは!
(もっとも、こんな話の枕に、ほんの今読みかじったばかりのマルクスを文脈をずらして使っているようでは、やはり私にはとても「資本論」なんてわかりそうもないのですが。
むしろ、「失われた時を求めて」のマドレーヌのシーンを引用すべきだったでしょうか。)