月夜に出かける場所
影を揺すって御覧なさい。そしてそれをじーっと視凝めていると、そのうちに自分の姿が段々見えて来るのです。(中略)不思議はそればかりではない。段々姿があらわれて来るに随って、影の自分は彼自身の人格を持ちはじめ、それにつれてこちらの自分は段々気持ちが杳(はる)かになって、或る瞬間から月に向かって、スースーッと昇って行く。
― 梶井基次郎 「K の昇天」―
現代の日本の都市部で、満月の夜、月の明かりだけしか自分を照らすものがない場所というのはなかなかない。
必ずどこかに街燈があって闇を追放している。
名月の夜くらい街の明かりを減らせよ、と思うがそうもいかないらしい。
私の部屋から歩いて15分ほどのところにある谷津干潟というのはおよそ40haほどの広さがある干潟なのだが、北側には谷津パークタウンというマンション群が並んでいるがその南岸は自然観察センターという建物があるばかりであとは広葉樹が植えられているだけだ。
自然観察センターとその周囲の遊歩道は日暮れとともに入口が閉じられるが、そこはごく低い金網のフェンスに囲われているだけなので、入り込もうとするのはわけもないことなのだが、そんなところに入り込もうとする不心得者は私ぐらいしかいない。
そこは周囲を木々で囲われているためにどこからも街燈の灯りは届かない場所になっている。
建物の正面を少し行くとそこはもう月明りだけしかささない芝生になる。
そこでは頭上にある月からの短いくっきりした私の影だけが地面に落ちることになる。
かたわらにJTの灰皿(月明りだけでSmokin’Cleanという文字さえはっきり読める)を備えたベンチに腰を下ろして月を見上げる。
もちろん、かたわらには缶ビール。
こんなによい月をひとりで見ている
山頭火ならずともこうつぶやきたくなる。
それにしても、月明かりの中に立っていると、物自体よりも実は影の方がそのものの実体なのだという奇妙な感覚が生まれてくるな。
「Kの昇天」が優れた小説かどうかは別にして、梶井が言っていることがわかる気がする。
それとは全然違う話だが、むかし、高校生だった頃、大雪の止んだ月夜、銭湯に行こうと歩いていたとき、屋根にのぼって雪下ろしをしている男の姿を見上げたことがあった。
そのスコップを手にした男の姿が中天の月を背景にした影絵になっていて、
ああ、あの男はあのまま昇天するのかもしれないぞ!
と思ったことがある。
梶井の「Kの昇天」を読んだあとだったに違いない。