散歩の秋
子供は大人と同じように、ずるい。牛乳屋の落第生なども、とてもずるいにはずるいけれども、同時に人のために甘んじて犠牲になるような正しい勇気もいっしょに住んでいるので、つまり大人と違うのは、正しい勇気の分量が多いという点だけだ。ずるさは仕方がない。ずるさが悪徳ではないので、同時に存している正しい勇気を失うことがいけないのだと私は思った。
― 坂口安吾 『風と光と二十の私と』 ―
天気がいいのでこのところ昼間出歩いている。
今日もふらふら歩いていたら、幕張に出てしまったが、その駅前の商店街に今まで知らなかった古本屋があった。
街で古本屋を見つけるとなんとなくうれしくなる。
うれしいから中に入る。
入ると自分の知っている本が並んでいる。
あるいは興味を引く本が並んでいる。
興味を引く、というのは本の背表紙がこっちに向かって呼びかけてくるということである。
それは、その本が薄暗い古本屋の棚にあるからである。
けれどもこれがブックオフだとこうはいかない。
初めてあの店に入ったとき、世の中には自分のまったく興味を引かない本がこんなにもたくさんあったのかと呆れたものである。
知らない本ばかりが明るい照明の下に並んでいる。
どの本も私を呼ばない。
さて、一わたり書棚を見終わって、何も買わないのも、というので、一冊50円で安吾の『白痴・二流の人』の文庫があったから、それを買った。
「二流の人」、読むのは40年ぶりである。
ハンバーガー屋でコーヒーを飲みながら読んだ。
おもしろかった。
「二流の人」というのは司馬遼太郎が褒めてやまない戦国の武将黒田如水のことである。
なるほど二流の人か、とひさしぶりの安吾の歴史物、たいへんおもしろかった。
その本に「風と光と二十の私と」も入っていたから、これもひさしぶりに読んだ。
高校二年の時のクラス担任だった国語の教師は漱石の「坊ちゃん」を読んで教師になろうと思ったと言って私らの失笑を買っていたが、高校生だった邑井氏は安吾のこの小説を読んで
「わしも先生にならんなんなあ」
と言っていた本である。
安吾が一年間小学校の代用教員をしていた時の話で、私の印象もさわやかものであったのだが、いま読み返してみると、むしろ極めて思弁的な小説であった。
この小説のさわやかな印象は個々のエピソードにではなく、描かれた当時の安吾の生き方の姿勢そのものから来るものらしい。
たぶん若い邑井氏が感動したのもそれだったのですな。
そのこと、忘れてました。