すぎろく
むかし、男、みちの国にすずろにいきいたりにけり。そこなる女、京のひとはめづらかにやおぼえけむ、切(せち)に思へるこころなむありける。
(むかし、或る男があった。遠い陸奥の国まで確かなあてもなしに流浪してたどり着いた。そこに住むの女は、都人を珍しく思ったのか、その男を一図に恋い慕う素振りがみえた。)
― 『伊勢物語』 第十四段 (渡辺実 校注)-
昔、ぼくの隣家は県の水産課長の官舎だった。
ぼくが小学生だった六年の間にそこに住む人の名前は、広橋さんから中里さん、そして谷脇さんと三回変わった。
広橋さんのところにはぼくと同い年の女の子がいて、一年生のクラスも一緒だったから、たぶん一緒に学校へ通ったのだろうが何の記憶もない。
次に来た中里さんにはおばさんにもおじさんにもずいぶんかわいがられた。
ぼくの姉と同い年の男の子と高校生のお姉さんがいる家だった。
ぼくが五年生のときやって来た谷脇さんのところには、ぼくの一つ上と一つ下の兄弟がいた。
引っ越してきた翌日、二人を川遊びに誘ったら、お兄さんの方がガラスを踏んでけがをしてしまって、その母親から二度と川へ誘ってくれるなと言われて、ずいぶん過保護な奴らだと思ったが、むろんそのころは「過保護」などという言葉は知らなかったし、たぶん、言葉としてもまだ日本語にはなかったように思う。
まあ、今になればそれが「過保護」に当たるのかどうかわからない。
なにしろ、はじめて誘われたあそびで子供が血を流して帰れば、かあちゃんも驚く。
ろくでもない奴がいる隣に越してきてしまったと思ったろう。
ただ、当時のぼくの周りで、川原でガラスを踏むなどというドジな奴はほとんどいなかったし、もし踏んだとしてもそれはありがちなことで、さほど大げさなこととはだれも考えてはいなかったのだ。
野蛮と言えばヤバンだが、男の子なんてケガしてなんぼ、だろうと今でも思うのだが。
今はどうなのかしらないが、その頃の県の課長というのは中央(たぶん自治省)から派遣されるものだったらしく、どの家の子供たちも皆東京弁をしゃべった。
言葉というのは、実に露骨に彼我の違いを感じさせるもので、「風の叉三郎」の中で、転校生の高田三郎君が標準語を話す生徒でなければ、あの物語自身が生まれてはこなかったに違いない。
ところで、谷脇君の弟の方のズック靴に
杉六・たにわき
と名前が書いてあったので、
「すぎろくってなんや」
と聞いたら
「杉並区立第六小学校のことさ」
と言われて、呆れたことを覚えている。
小学校の名前が番号だなんてずいぶん変だなあと思ったのだ。
そんなことを思い出したのも、ここに越してきたら習志野の中学校も第一中学校、第二中学校と番号で名前がついていたからで、大人になった私もやっぱり、変だなあと思ったのだ。
学校の名前って番号じゃないだろ、と思うが、ここいらの人はそうは思わないのかしら。
ちなみに私と邑井氏の出た中学は野田中学だし、勝田氏は金石(かないわ)中学。
司氏のは泉中学だし、前野氏に至っては紫錦台(しきんだい)中学というなんともはや華麗なる名前の中学校出身だ。
そんなもの、どっちだって一緒だ、と言われればそうかもしれないが、名前は符丁ではないはずだと私は思うのだが。
ところで、ぼくの小学校の校区は当時の金沢の市街地と郊外の境目あたりにあたっていて、企業の社宅なども数多くあったので、毎年クラスには転校生が2,3人いるのが普通だった。
そして、その多くが標準語を話した。
男子の方のことはあまり記憶にもないのだが、転校してきた女の子は、どういうわけか、皆、かわいく思えた。
もちろん、都会育ちで、たぶん皆、そこいらの女の子より垢ぬけていたのだと言えばそういうことなのかもしれないだが、ぼくにはどうもそれは彼女たちが使うあの標準語のせいであったような気がする。
古来、日本では都から来た高貴な生まれの者が地方でそれなりの地位を手に入れていくという話が多々あって、たとえ下級貴族であっても、受領なんかになって地方に下ると威張っているなんて妙なことのようだが、地方の者にとって、彼等の地位が自分たちより高いということよりも、まずその使う言葉の違いが、身体的に彼我の差として意識されたのではあるまいか。
使う言葉の違いが、間違いなく自分たちとは住む世界が違う人として意識されたはずだ。
北条政子が都から流されて来た源頼朝にのぼせあがったのも、その容姿や人柄よりも何よりも、彼が語る都訛りの言葉のせいではなかったろうかと私は睨んでいるのだが・・・。
さて、ぼくの隣にはその後、二人の水産課長一家が越してきたはずなのだが、ぼくはその名前を覚えていない。
たぶん、中学生・高校生になったぼくはもう近所の子と遊ぶなんてことをしなくなったからだろうし、その家の子供たちもぼくより小さな子供だったからかもしれない。
それさえ覚えていない。
官舎はぼくが大学一年の時民間に払い下げられ、ぼくは新しく建て替えられたその家の中学生の家庭教師をしたりした。
その家に越してきたのは地元の金沢弁を話す一家だった。