民主主義
一般意志が十分に表明されるためには、国家のうちに部分的社会が存在せず、各々の市民が自分自身の意見だけを言うことが重要である。
― ルソー 『社会契約論』 (桑原武夫・前川貞次郎 訳) ―
午後、ずっと民主党の代表選のテレビを見ていた。
なるほど、みんな上手に話す。
けれど、その後ろに自分はいたのか。
すくなくともそう見える人が代表に選ばれた。
とりあえず、それはよかった。
話していることの後ろにちゃんと自分がおり、目の前に相手がいるということは、自分の語る言葉を大切にするということだ。
自分の言葉を大切にする者しか自分の意見は言えない。
日本の政治がここまで醜悪になったのは、政治をやる者が言葉を大切にしてこなかったからだ。
その場だけの言葉や、美辞で事を飾ったりすることにだけ言葉が使われてきたからだ。
言葉が、自分の頭でものを考え相手と話し合うために使われるのではなく、誇張と韜晦のためだけに使われてきたからだ。
ルソーは『社会契約論』の中で、一人一人の個人が己の内面にある一般意志にまで降りて行くことをすれば、自由で平等な社会への道が開けるといっている。
それは極めて楽観的な思想かもしれないが、楽観的な思想だからこそ、近代の市民社会を生み出す力を持ったのだ。
その彼が一般意志と対立するものとして述べるのは徒党や部分的団体だ。
彼は言う。
徒党、部分的団体が、大きな団体を犠牲にしてつくられるならば、これらの団体の各々の意志は、その成員に関しては一般的で、国家に対しては特殊的なものになる。その場合には、もはや人々と同じ数だけ投票者があるのではなくて、団体の数だけの投票者があるにすぎないといえよう。
たぶん、政治家としての小沢氏のありようとは
徒党を組むことこそが政治だ
という信念であったろう。
それは多くの政党政治家の信念でもある。
けれども、徒党を組むとは、その成員が自らの心の奥まで降りて、自由に自らの意志で考えることを停止することだ。
政党政治とはそもそもそういうものだ。
だからこそ、選挙では、彼は、はなから自分の頭で考えることもできないようなタレント議員を多く擁立したりしたのだ。
そして、たぶん彼の中では、今回の海江田万里氏は参院選における谷亮子氏と同列の人選であったろう。
しかし、自分の意志によって考えない人の集まりは、ルソーが夢みた市民社会のありようではなかった。
意志から自由をうばい去ることは、おこないから道徳性をまったくうばい去ることである。
まあそれはさておき、自らの意見をくるくる変え、その存在の軽さを売りにして小沢氏の担ぐ神輿になりすました人(神輿は軽い方が担ぎやすい)が日本国の総理にならなかっただけでもとりあえずよかった。
自分の意思を言葉で丁寧に語る人が選ばれたのだと思った。
すくなくとも今日はそう思った。
よい人が総理大臣になるのだと思いたい。