終戦記念日
自分の意見というものは滅多に表面まで浮かびあがって来るものではない。
― ニーチェ 『人間的な、あまりに人間的な』 (阿部六郎 訳) ―
今日66回目の終戦記念日。
この66年間、曲がりなりにも戦争をしなかった国としての日本がある。
そのことの是非は言うまでもないし、そうでありつづけた根本に戦争放棄を謳った日本国憲法があるのは明らかだが、今も一部にはそれがアメリカからの押し付けであるとして「自主憲法」を制定せねば、と唱える人たちもいるようだ。
あるいは戦前の日本の歴史に関しても、学校で教えるそれは「自虐史観」であるとして、自分たちの手で教科書を作った人たちもいる。
ふしぎなことだ。
戦争は悲惨だ。
原爆を落とされた広島・長崎だけではない。
東京をはじめとする日本各地への空襲による悲劇は今なお語り継がれている。
これらの空襲による被害だけではなく、学徒出陣、ひめゆり部隊、特攻隊、沖縄戦、あるいは硫黄島、戦艦大和と、戦争に巻き込まれざるを得なかった当時の人々の話がさまざまな映画やドラマで繰り返し語られる。
けれどもそのように語られる物語は、言ってしまえばみな戦争の犠牲になった者たちの物語だ。
もちろん、それは人びとに戦争という非人間的なものを忌避する思いを抱かせるに十分なものだ。
そのように語られる悲惨の記憶が私たちに第9条の改変を拒ませてきたのだと言っていいかもしれない。
だが、はたしてそうだったのだろうか?
語られた物語だけが戦争を忌避させてきたのだろうか?
むしろ語られなかった記憶が9条を守らせてきたのではなかったろうか。
私の父は兵士として中国で戦った。
けれども私は父から一度も戦争の話を聞いたことがない。
(唯一、大砲を運ぶ馬の目がいかにかわいいものであるかを聞いただけだ。)
それはなにも私の父だけに限ったことではない。
戦争に出かけた多くの男たちは戦場での話を子供に語らなかった。
私の友人でそれを聞いたという者を私は知らない。
ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声もたてなくくづをれて伏す 宮柊ニ
この歌の作者宮柊ニ(しゅうじ)も中国で一兵卒として戦った。
白兵戦において敵を片手で引き寄せながら剣を刺したとき、その男は声も立てずに崩おれ伏したというのだ。
剣を持つ手に相手の体重も吹き出す血の温みも感じただろう。
けれどそのとき何を感じたかは歌わない。(あるいは歌えない。)
ひきよせて寄り添うように刺したら相手は声も立てずにうつ伏せに倒れた、という事実だけを歌う。
兵士になるというのは加害者になるということだ。
『俘虜記』の中で大岡昇平は目の前にいる米軍兵士を撃たなかったことを書いている。
それは彼が隊から離れ一人でいたからだ。
そのとき彼は「兵」ではなくなっていたからだ。
軍隊の中にいてその指揮命令系統の中にいるとき人は我にもあらず加害者になる。(あるいはさせられる。)
被害者になった者はその事件を語ることができる。
けれども加害者になった者はそれを語れない。
(宮柊ニはそれを歌ったが、それがどれほどつらいことであったかを思わなければならない。)
加害者であることがどれほど魂を傷つけるものであったかは、男たちが戦場でのことを何一つ語らなかったことを見ればわかる。
彼らは語らなかった。
戦場に行って帰って来た男たちは戦争の被害の悲惨を訴える女たちの後ろで黙っていた。
黙っていたが、けれどもその沈黙の中で、自分の息子や孫たちが自分と同じような加害者になることだけはさせまいと思っていたに違いない。
加害者になってしまうことのかなしみを彼らほどわかっているものはいなかったのだ。
戦後66年、日本が不戦の国であったことの後ろに、語らざる者としての男たちの暗い悔恨があったことを忘れてはいけないのだと私は思う。