消夏法
極暑の時も、極めて涼しくすべからず。
― 貝原益軒 『養生訓』 (石川謙 校訂) ―
「姉疲れ」、ですか。
さすが、司氏、言い得て妙。
勝田氏言うように、そこはかとなき典雅の趣。
このような言葉が、すらり出てこないようでは、私もまだまだです。
それにしても、暑い。
ひたすら暑い。
で、暑いのはイヤか、と言われると、そうでもない。
どちらかと言うと、好きである。
夏の昼間、汗をかきながら何かをしていると、妙に生きている気がする。
この年になれば、汗をかくなんてなかなかあることではない。
だから、カンカン照りの中、歩いただけで汗が出てくるとなんだかうれしくなる。
で、今日のわがケータイの歩数計の表示は6,845歩。
一万歩に満たぬとはいえ、体はなにやら爽快である。
「そんなの、あんた、異常だよ」
と言われるかもしれないが、例えば、テレビのニュースのインタビューで
「いやあ、これ以上暑いと死にますよ」
なんて言ってる人も、汗をふきふき、実はどこか笑顔だったりする。
ぎらぎら太陽の夏の甲子園のアルプス席にいる人の数が春のセンバツより断然多いのも、実は、言うほど人は暑いのがキライではないからではないのか、と私は思っている。
阿波踊りだ、よさこいソーランだと、このクソ暑いのに踊りまくるのも、どこかで身体がこの暑さの中で汗をかくことを快としているからなのではないだろうか。
皆、クーラーに慣れてしまって忘れてしまっているが、実は一番の消夏法というのは、積極的に汗をかくことだということをたぶん体が覚えているのだと思う。
引用の貝原益軒氏はクーラーなんてなかった江戸時代にすでに
すごく暑いときも、めちゃめちゃ涼しくしちゃあ体によくないぜ。
と言っている。
勉強はもちろん涼しい方がずっと効率的なんだろうが、受験間近の冬よりも、クソ暑い二階の窓を開け放して、汗をだくだく流しながらパンツ一丁で何時間も英語の辞書なんぞを引いていた高校三年の夏の方がずっと勉強したように思えるのも、そうすることが、どこか身体的充実をもたらしていたからではないかと思うんだが、それは幻覚かなあ。
とはいえ、これくらい暑いと、くだらぬ私の《姉疲れ》なんぞ、どこかに吹っ飛んでしまいます。
暑い夏はわるくありません。